逸見晴恵さんの壮絶なる死を悼む

 

 

 在りし日の逸見晴恵さん (享年61歳 早過ぎる死)

 

 

 

 

          逸見晴恵さんの壮絶なる死を悼む

 

 故逸見政孝氏のご夫人、逸見晴恵さんが今月21日に亡くなっておられた。享年61歳という若さだ。我が亡き主人が逸見氏とのお付き合いがあり、生前年賀状は、毎年家族全員が写っている逸見家の画像と共に賀状をお送り下さっていた。私が30歳になる前だったか、政孝氏が独立した頃、我が主人と、お忙しい中ご一緒に遊んだことがある。腰痛から回復されて間もなくのことであったろうか。それで彼は殆ど下戸で、お酒は召し上がらなかったが(アルコール性アレルギーのため)、その夜どういうわけか、そしてどちらから誘われたのか、主人に同行し、政孝氏と三四人で渋谷のカラオケ店に行ったことをよく覚えている。歌を歌うのが大好きな私は調子に乗って、井上陽水や尾崎豊の歌を歌っていたが、気付くと私だけがマイクを握っていて、すっかり恐縮し、主人にマイクを渡すと、主人は甲高い声で小田和正や美空ひばりを歌った。逸見氏に差し向けると、どうしても歌えないのだという。まぁまぁテレビに写るわけじゃないんだからと言って、主人が強く促すと辛うじてマイクを持って佇んだ。「僕は一曲しか歌えないからそれでいいか」というものだから、「勿論」とやんやの喝采をし、今や遅しと待っていると、すると何と「イ~~ノチ~短しぃ、恋せよ~オトメ~~」と、あの『ゴンドラの唄』を歌い出した。お世辞にも上手な歌唱ではなかったが、主人の眼からポロポロと涙がこぼれた。逸見氏は半ば音痴かも知れないが、余りにも誠実なその人柄に打たれたのだった。後で聞いたら、カラオケは師匠について相当お稽古されていたようで、晩年あちこちで歌ったのも知っているが、ゴンドラの唄は、彼の十八番だったに違いない。

 あの癌告知の記者会見から、それでも彼は頑張っていた。だってご自宅を新築なされた直ぐ後だったもの。その年の2月から癌との闘いは隠されていた。9月に例の癌告白の記者会見をし、最期は腸閉塞を併発し無念かな退院出来なかった。長男・太郎ちゃんの21歳の誕生日(12月24日)、その翌日の25日にご他界なされ、信濃町の千日谷会堂で、26日通夜、27日の葬儀及び告別式があったが、私たちはその別れの式に出席させて戴いた。告別式の間中、前席にいた大親友のビートたけし氏が周囲に気遣うことなく号泣していたのが今でも鮮明に忘れられない。早稲田大学演劇専修から同時に二人でフジテレビに入社した松倉悦郎アナも大真面目な方であったし、親友の菩提を弔いたいと、定年を前に依願退職し、2002年春から奥さまのご実家である兵庫県姫路市・浄土真宗本願寺派(お西)不動山善教寺で門徒の僧侶になられた。僧としての名は「結城思聞(ゆうき・しもん)」。彼もまた逸見氏に負けない真面目な方で、番組内で後輩アナから冗談まじりで「アナウンス界の田村正和」などと言ってからかわれると、放映中でも烈火のごとく怒って叱責したほどであった。

 逸見政孝氏は、彼の死の13年前弟さんを同じスキルス性(進行性)胃癌で亡くしている。だからご夫人の晴恵さんも相当に体調に気遣っていたようであったが、ご挨拶程度の葉書の往来はあったものの、まさかご本人が夫の死後すぐに子宮頸癌を手術し、爾来それに伴う骨髄異形成症候群(血液の癌)を告げられただなんて。政孝氏死後10年目に、晴恵さんが自著「黙っているの もうやめた」(日本医療情報出版 刊)。そして癌撲滅のためにあんなに真摯に講演活動をし頑張っていたのに。癌患者さんと一緒に出掛けたご自身企画の海外旅行・「いっつ癒しの旅~ガン卒業旅行」は毎年続いていたからどこか安心していたのだが、今年は本人は行けなかったらしい。きっと特別に悔しかったに相違ない。私も一度講演を聴いたことがあるが、実に前向きな方で、未だに信じられないでいる。骨髄異形成症候群は年々抵抗力をなくして行く血液の癌らしく、この四ヶ月間入退院を繰り返していたという。そしてついに力尽き21日肺胞蛋白症にて亡くなられた。そんなに早く政孝氏のもとに行きたかったのか、一報に接し嗚咽してやまなかった。松倉悦郎氏、いや結城思聞師の日々のブログにもその日の記事が出ている。思聞師にとっても大いなる哀しみの中にあるのだろう。お母さんのご葬儀を極限られた方々で静かに密葬して送られた二人の子供たち、太郎さんと愛ちゃんの心根がしみじみと私たち伝わって来る。今頃はあの世で再会され、政孝氏は大好きなコーラで、晴恵さんはお酒で乾杯され、ご苦労さまとでも言い合ってらっしゃるのだろうか。心からご冥福をお祈り申し上げたい。

 尚関西の多くの著名人から逸見政孝氏は関西を裏切ったヤツだという批判が多かったが、彼ほど阪神タイガースを愛した人はいなかった。72歳にもなって道草くっている三文エッセシトにはその情愛のほどは分からぬことだろう。上岡龍太郎や、やしきたかじんなどがその批判の急先鋒であったが、彼らには何も分かっちゃいない。政孝氏が注ぐタイガースへの愛情は相当なものであった上、関西に多くおられる品の悪いほうではなかった。他球団は他球団に対し、必ずリスペクトしていたし、父上さまとも太郎ちゃんとも親子三代に渡ってファンだと自負し大いにタイガースを応援していた。そして家族あげて関西(出身は大阪市阿倍野区)に帰省するとき、あの日航ジャンボ機123便に搭乗する予定だったのだが、晴恵さんが飛行機が弱いからと言って、太郎ちゃんの発案で急遽新幹線で行くことになり、あの盆前の大惨事、大難を逃ていた。音楽家・三枝成彰氏の実弟で映画監督の三枝建起氏も、彼の早稲田の同級生らしいが、赤い豆タンって英語ばかりじゃないんだなぁ、学生時代の逸見は赤く小さなアクセント辞典を始終持ち歩いて、食べてしまうような勢いで必死になって、アナウンス研究会で努力していたものと。服装は常に学生服で角帽で下駄履きのバンカラでまん丸眼鏡を掛けていたとか。尚松倉悦郎氏は放送研究会出身だったとも伺ったことがある。あれもこれも今や遠い記憶となるのだろうか。心から心からご冥福をお祈り申し上げ、願わくば太郎ちゃんや愛ちゃんに過酷な遺伝がなきようにと心底から・・・・。

 松倉悦郎(結城思聞氏ブログ)思聞のひとりごと

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                   「逸見晴恵さん、ついにお浄土へ」 (逸見家と濃厚な関係があった親友らしく短く深い哀しみが)

 

 

 果たして女を生ききったのだろうか 逸見晴恵さんの早過ぎる壮絶な死 無念の極みなり

 

 

    故 逸見政孝・晴恵ご夫妻にささけ給ふる「金子みすゞの詩」一篇

 

     花のたましい    (金子みすゞ 詩)

 

      散ったお花のたましいは、

      み仏さまの花ぞのに、

      ひとつ残らずうまれるの。

 

      だって、お花はやさしくて、

      おてんとさまが呼ぶときに、

      ぱっとひらいて、ほほえんで、

      蝶々に甘い蜜をやり、

      人にゃ匂いをみなくれて、

 

      風がおいでとよぶときに、

      やはりすなおについてゆき、

 

      なきがらさえも、ままごとの

      御飯になってくれるから。

 

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