Miss Potter

 

 

ビアトリクス・ポター作 「ピーター・ラビットのおはなし」 (全24巻の最初 英語版)

 

 

 

               Miss Potter

 

  レニー・ゼルウィガー主演の映画で『Miss Potter』がある。ご覧になられた方も多いことだろう。無論ヘレン・ビアトリクス・ポターの自伝的映画であるが、レニーが主演したことで尚一層ビアトリクス・ポターの魅力が表現されていた。ピーター・ラビットのお話や絵は湖水地方で過ごしたビアトリクス・ポターの経験から生まれたものだが、その自然を保護するためにビアトリクスは生涯を自然の保護に捧げたものと言えよう。美しい湖水地方の自然がピーター・ラビットを生み、その印税などによって、広大な湖水地方の美しい自然を買い取って守り、次世代に引き継ぐため大切に活かされたものであった。

 ヘレン・ビアトリクス・ポターは1866年 ロンドンのウェスト・ブロンプトンの裕福な中流家庭に生まれた。父・ルパートはバリスター(法廷弁護士)であったが、両親とも先代から財産を受け継いでいたので、実際に仕事をしたことがなかったが、母親は水彩画家として著名になるのだから、母親と同姓同名といい、DNAといい、影響がなかったわけではない。因みに富豪だった祖父はマンチェスター芸術学校の校長、祖父も父も大変に審美眼の優れた人達で、芸術の収集家であり、そうした綿では恵まれた環境で育ったと言えよう。ビアトリクスも早くから絵の才能があったが、画家になるきっかけは後に自らも画家になる6才下の弟の強い進めがあってのことであった。

 最も重要なビアトリクスの時期は幼い頃で、自宅の3階で保母に養育されため、異常ともいえるほどに外部から隔絶されて育ち、近所の子供達と交流もなく、実に寂しい日々過ごした彼女であった。部屋から外に出るのは喪服姿の保母と公園を散歩したり、階下の両親に会う時ぐらいであった。そんな習慣はビクトリア王朝末期である残像で、彼女は学校も行くこともなく、専任の家庭教師に教育を受けたのであった。この頃,、彼女と弟の楽しみと言えば、ペットとして、ねずみ、うさぎ、へび、はりねずみなどを3階の部屋で飼うことであった。それでも彼女と弟たちにとって、最も楽しい時間はスコットランドや湖水地方で過ごす長い夏休みであった。ビアトリクスが5才の時、初めて田舎の暮らしを経験したのですが、彼女は動物や花の絵を描くのに夢中になりました。その後も、ポター一家はりすやうさぎのいる湖水地方の様々な場所で休日を過ごし、ビアトリクスは多くの風景画を描き残した。

  24歳の時、弟バートラムの強い勧めで、うさぎの絵をグリーティングカードを描いて出版社に送ったところ、すぐに小切手が送られてきて、更に新しい作品の依頼があった。ところがそこからメジャー・デビューまでは長かった。27歳になってもまだ両親と暮らしていたビアトリクスであったが、以前の家庭教師の子供で、病気療養中のノエル君に手紙を書き始めた。その手紙にはうさぎやりすなどの絵が添えられていて、どれも生き生きとした動物ばかりで、とても楽しいもので子供達に元気を与えることが出来た。ビアトリクスはそれを本にしようと思いついた。1901年、ビアトリクスは「ピーター・ラビットのおはなし」の出版社を見つけることが出来ず、モノクロで自費で出版した。この時既に35歳、絵本作家、そしてイラストレーターとしてのキャリアのスタートであった。やがて、友人の紹介でノーマン・ウォーンと交際を始たが、1902年についにノーマンの父の出版社フレデリック、ウォーン社から「ピーターラビットのおはなし」のカラー版が出版され、以後30年に渡り24冊の本が出版され続けた。戦争中は誰にとっても陰鬱な時期であったが、ビアトリクスはウォーン社が戦争を口実に印税を払ってくれるかどうか心配でした。残念ながら、不安は的中してしまう。しかし、倒産寸前のウォーン社はビアトリクスにもっと作品を書いてくれるように依頼、その出版により、幸い倒産を免れることが出来たようだ。ビアトリクスとノーマンは知り合ってから4年間、ほとんど毎日、手紙のやりとりをして、そうして、1905年39歳のビアトリクスは厳格な両親の反対を押し切り、ノーマンのプロポーズを受け入れたが、湖水地方のい出掛けるプラットホームでのノーマンとの出合が最期になってしまった。何とも不運なことにこの結婚は実現せず、婚約の僅か1ヶ月後にノーマンは急逝してしまったのである。

 哀しみを打ち払うように1905年、両親と決別。ビアトリクスは本の印税収入で、お気に入りの湖水地方に移り住むために土地を買い、それから8年の間、本を書いたり、農場を訪れたりして忙しい毎日を送っていた。近辺に開発業者の土地買収の話が勃発。豊かな印税の資金で買収業者と断固戦い、開発の魔手が伸びないように孤軍奮闘していた。避暑に来ていた少女時代に知り合ったお兄ちゃんは立派な弁護士となっていた。彼は土地買収た登記を手伝い、ビアトリクスが仕事に専念出来るようにしていた。1913年に彼女はまたも両親の反対にあうが、その弁護士のウィリアム・ヒーリスと8年間の交際を通じ結婚してしまう。その後30年間、農場主としての幸せな結婚生活を送った。晩婚だったために子に恵まれなかった。現在はその弁護士事務所が、National Trust for Places of Historic Interest or Natural Beauty(一般に略して通称ナショナル・トラストと呼ばれる)に広大なビアトリクスからの寄贈によって親しまれ、その中にビアトリクス・ポターギャラリー(通称(HILL Top)になっている。ビアトリクスはさらに農場を買い続け、ハードウィック羊の優秀なブリーダーになるのですが、それ以後も次々と不動産を買い続けた。60歳半ばにはビアトリクスの創造への情熱は薄れ、農場中心の生活を送るようになっていった。彼女が亡くなった時、14の農場と4000エーカー(16k㎡)の土地はナショナルトラストに寄贈された。それにハードウィック羊(角がクルクル巻かれている羊)の群れも・・・。そして晩年のベアトリクスは長い間、気管支炎に苦しみ、1943年12月、77歳で世を去った意志の強い凄い女性でした。

 

      

      

     

     

 

 ◆ 映画での描写

映画では肝心の幼女時代が描かれていない。32歳頃から、初恋と愛する者の死と、大好きな湖水地方での晩年、そして二度目の恋を成就させた時だって両親は反対したが、その時は既に45歳を過ぎていた。愛する湖水地方の絵を描く場面で、この美しい映画は終わっているが、莫大なビアトリクスの遺産相続の大半は夫のウィリアムによって相続されたが、本の印税と権利はノーマンがとても可愛がり、ビアトリクスも大好きだった甥のフレデリック・ウォーン・スティーブンスが相続した。湖水地方のナショナル・トラストの大半がビアトリクスの遺産として語り継がれ、今日まで大切に残されている。残念なことに、ポターの絵本を手掛けたフレデリック・ウォーン社は1983年にペンギンブックスに吸収合併されたが、絶大な要望や出版への渇望が続き、今でも世界中の何処ででも愛されていることを実感する。ポターの「ピーターラビット」と、ディック・ブルーナの「ミッフィーちゃん」と、トーベ・ヤンソンの「ムーミン一家」など、世界のロングセラーとして、これからも読みつがれてゆくことだろう。

 

 

 

 

 

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