万葉のやまと 櫻旅

 

 

 近鉄室生口駅下車 大野寺の枝垂れ櫻 アップ図

 

 

 

万葉のやまと 櫻旅

 

 

万葉集の櫻の歌は梅花に比べたら、約半分の歌であり、長歌を含め40首。

梅花の歌はその倍を遥かに超える。天智二年(660年)「白村江の戦い」で敗れ、

「和と」、「百済」連合軍は、「唐」・「新羅」連合軍になす術もなく敗れ去った。

急遽「記紀」を整備され、万葉集が編纂されて、国家としての形成を急がれた。

その後多くの渡来人も流入し、新しい国家が出現、奈良には当時10万人もの人々が生活していた。

但し支配階級の公家や官僚は600人足らずで、武人など全体で一割に達していたか。殆どは平城京造営の為に、

地方かり駆り出された工人で溢れていたのだろう。

「続日本紀」には天皇自ら、地方出身者の死亡公告を親元に届けるようにと発布なされた。

 

渡来人たちは主に大分県と福岡県にまたがった地方で暮らしていたが、

必要性が高く、優秀な仏師や鋳造氏や、様々な分野の人たちが次第に都に招かれたようである。

その頂点に立つのが秦氏であった。秦とは神の依り代になる「幡」であり、畑作のハタであり、機織のハタであった。

九州勢は宇佐八幡社を創設し、当初は渡来神を祀った。都に出て来た渡来人は稲荷社を造営し、広隆寺を創建し信仰の対象とした。

八幡社と稲荷神社は全国に現在ある神社総数の第一位と第二位である。

やまとの人々は挙ってご利益を求めたことであったろう。

 

何時の間にか、日本古来の神々に豹変し、祀られるようになったが、この変遷の証だったのが、

最も大きかったのは梅より、櫻を選んで「左近の櫻」とし、或いは「御階(みはし)」の櫻となったことであろう。

第一、梅において農事では2月8日の「ことはじめ」の時期だけであり、

全国に今でも残る「種蒔き櫻」の名こそが、具体的な農事の始めを思わせた存在であったに違いない。

そう言えば櫻の名木や老樹は村中の何処からでも見える場所にあるのが殆どではないだろうか。

神仏混交など、八百万の神々も、日本人の宗教観には敵対する神々などないのである。

織田信長に言わせるまでもなく、キリスト教もイスラム教も異教としない受け入れ方があったのかも知れない。

 

今年の櫻を観ながら、つくづく日本人の鷹揚さと軟らかさを伺われてならなかった。

 

 

 

 左から 吉野・如意輪寺付近の中の千本 長谷寺の櫻(中央) 室生寺の櫻(右)

 

 乞うご参照! 万葉集の花 櫻 

 

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