天衣無縫なる巨匠・中川一政の画業

 

 

 

天衣無縫なる巨人・中川一政の画業 

 

 

一見無造作に そして奔放に伸び伸びと描かれた薔薇や椿 そして風景画

特に九十歳を遥かに超えながら 十国峠から描かれた200号の『駒ヶ岳』の風景画の数々は観るものを圧倒する

 誰に師事するでもなく 独立自尊で勉強をしたパワフルな創造力 そんな巨匠の略歴を少々御紹介しておこう

 

      1893年(明治26年)東京本郷に生まれる
      21歳のとき最初に描いた作品「酒倉」が岸田劉生に認められ 画家を志すようになる
      油彩だけではなく 岩彩(日本画)書・篆刻・陶芸・装丁などその創作活動は自由奔放で多方面に渡った
      また屈託のない文章で知られる随筆・紀行文など著書も数多く 読むほどにその魅力にはまって行ける
      1961年(昭和36年)には歌会始の召人に選ばれ次の召歌を詠進した 御題は「若」

         若き日は馬上に過ぎぬ残る世を
                楽しまむと言いし伊達の政宗あはれ   

      1949年(昭和24年)真鶴町・釈迦堂にアトリエを構え『福浦」・日本一広いアトリエと自慢する箱根の『駒ヶ岳』などの制作に励む
      1960年(昭和35年)には福浦を描いた『漁村凱風』が全国知事会よりお買い上げされ 東宮御所に献納された
      1975年(昭和50年)82歳で 『文化勲章』を受章
      1986年(昭和61年)母の故郷である松任市に多数寄贈し 市立中川一政記念美術館を開館
      1989年(平成元年) 3月2日 2つ目の美術館となる真鶴町立中川一政美術館が開館される
      1990年 平成2年5月「中川一政美術館1周年記念展」を開催。33点の新作油彩画を発表
      同年 秋 パリ市立カルナヴァレ博物館に於いて「奥村土牛・中川一政二人展」が開かれ 大好評を博す
      1991年(平成3年) 2月5日 静かなる死去 享年97歳11ヶ月であった 半年前に書かれた書『正念場』は中川らしい気概を示すものだ
      同年5月「中川一政書展」を開催 前年から企画していたもので この展覧会の図録が画伯自身の手がけた最後のものとなった
      同年9月 真鶴町の名誉町民第1号となった

 

普通 死に直面した人間が この文句を書くだろうか

考えて見ると中川の20歳前後の頃は一つの頂点であったかも知れない 一躍注目の的となり 画壇デビューは早かった

だがそれからの中川の苦闘は ある種凄惨なものであって 師もない弟子もないスポンサーもない彼はあらゆるアルバイトを

せざるを得なかった 徳川無声に弟子入りし 無声映画の弁士の修行をしたこともあった あっそうだ 僕は話すことは嫌いなんだと

あっさりと辞めてしまったが その後も様々な仕事につきながら 自分の絵とはなんぞやを考えていた

新聞連載の挿絵も描いた 額縁屋になったこともあった

 

 

最も中川自身が面白かったのは 己の仕事に関係がある額縁屋での修行だったらしい 

今では 笑い話にでもなろうか 杉並にいた家族を養わなければならなかった

そうしながら日々絵の研鑽を積み 然しどうしてもある内面にある壁の連続 中川は苦悩していた

そして56歳になった時 単身で杉並の自宅を出て 真鶴町の釈迦堂に居を移し そこで画業専心を決意するのだった

妻子を残しての 絵の修行である 生半可な気持ちではなかった それで何に取り組んだか

きっと皆さまも現地を見れば あっと驚くに違いない その驚きとは余りにも平凡で小さな風景であった 福浦の岬である

 

 

真鶴半島の南の真下にある福浦漁港の突堤から見た対岸の村落の絵が最大のモチーフだった

何の変哲もないこの風景を 中川は「これを描き切れなかったら 一人前にはなれない」と覚悟しての決断だった

何とそれは その後20年間も続くのである 来る日も来る日も突堤に立ち尽くし 当初漁民の方々は突堤に棒ッきれが立っているとの噂話

ここを描かなければ一人前にはなれないと 自分で決めつけ 何と20年間もここだけ油彩を描き続けた トンでもない度胸と覚悟だ

雨の日は 市場から仕入れた生きた魚の絵を岩彩で描いたり 書を書いたり 原稿を書いたり

もともと文人肌としての才覚があって 『早稲田文学』に登場したほどの若い頃もあったから 著作も多い

 

 

 

 

 

このように 雨で突堤に立てない時も ひと時も筆を休めることはなかった

画商泣かせとも言われた 同じ福浦の絵しか描かないではないかと値段は一向に上がらなかった

正確に数えたことはないが 福浦の絵は 確かにその数は他のモチーフを圧倒して多い

 

そうして漸く自らが 福浦を卒業出来るとして70歳半ば 彼本業の油彩は今度は薔薇や百合や椿の花々に移って行った

時間を極端に惜しむように 激しい気概で描きまくった

 

                     

       

                        

 

   中川一政の「福浦突堤」

 真鶴半島の入り口 相撲湾に開けた小さな港町 神奈川県真鶴町  一年を通して大勢の釣り客や磯遊びに来る人たちで賑わう 豊かな森の緑とふりそそぐ太陽  そして どこまでも広がる雄大な水平線 そんな真鶴の風土をこよなく愛した中川一政 日本西洋の巨匠で文化勲章受章者の中川一政 97歳の長寿を生きた彼は 後半生の40年を真鶴で暮らし 旺盛な創作活動に励んだ 福浦突堤は真鶴半島の突端にあり 原始林と相模湾を一望できる展望公園 海を見晴るかすその豊かな樹林の中に 「町立・中川一政美術館」がある この美術館は中川一政画伯から自作の油彩・岩彩・書等数多くの作品の寄贈を受け 平成元年3月に創立された 簡素でシンプルな館内に飾られた絵の数々はいずれも生命力と躍動感にあふれる そんな中最も多いのが「福浦突堤」 だ 中川は、56歳で真鶴に移り住み アトリエを構え 真鶴半島のつけ根にある福浦港 漁船わずか10隻あまりのこの小さな漁港を 生涯のモチーフとして描き続けた 中川は、魚の絵もたくさん描いていた 真鶴半島は箱根火山の外輪山の一部が相模湾に突き出したと言われている 断崖絶壁が続き 豊かな森が広がっているため 漁港には 毎日目の前の相撲湾で獲れた新鮮な魚介類が水揚げされる 中川の絵の題材にするため 毎朝市場で魚を仕入れると アトリエに届けていたという地元の大工の森さんは 「先生は生きた魚しか絶対に描かなかった」と語る 森さんは中川の絵の額もいくつか作っている そんな森さんに中川は自作の絵を贈っている 果たしてそのお宝の絵とは・・・? 中川一政のもう一つの代表作「駒ヶ丘」と静物画“薔薇シリーズ”も 館内では常時入れ取替えされ 我々にパワーを送り続けている

上記紹介文があるくらいで 大方お察しはつくであろうが 中川は独学の人で 自ら開いた境地を遺憾なく作品に昇華して行くタイプだ

中川は自分の藝術に 次のように多くの著作の中で感想をもらしている

「美の一字で縛れないものがある きたなくても 変に生きている美術がある いっそ美術と言うより 生術と言った方がまだよいのだ」

「私が探し求めているものは何だ それは手答えである 手答えがあれば人が何を言おうとよいと思う 手答えがなければ人は賛めても満足出来ない」

「画と言うものは本能的なものが一番重要なものだと思う これが強いか深いかが画のノックアウトパンチであろうと思う」

「ノックアウトパンチを持つこのが 画描きの勉強であると思う それが何よりも一番重要な勉強であると思う」

「私の考える画家は 先ず生きていなければならぬ」

「私の考える美術とは とにかく生きて 脈打っていなければならない」

「鼓動が打っていなければならぬ」

「拙くても 汚くても 幼くてもいい その底に生命を感じられるものであれば」 

「見える境地にいる時 拙い一筆蝕 一色彩の間にも 神の恩恵がひそむ 力と光はそこから発する」

 

中川一政は自由奔放を愛した 生きて描く その一点からであって 死んだ魚のような絵をよしとしなかった

最初文人を志したが ゴッホやセザンヌを白樺派によって紹介されるや 一転画家を志した だがこの多くの絵に言えることは

所詮油彩は西洋のものだと 西洋人の模倣ではいけない 東洋人としての生き方があるはずだとも言い放っている 従って

書や陶芸や篆刻や日本画・版画・挿絵と何にでも挑んだ 陶芸では大樋焼きや唐津焼きにも挑戦し 多彩な器を創っている そしてその陶器で

銀座にたくさんのお客を呼んで自分の器でもてなし しかも自由闊達なお作法で 大らかにご機嫌なご様子であったことが知られている

油彩からすれば そんな遊びの世界には 西洋人考えられない東洋哲学が鷹揚に脈々と底辺を支えていたのではないだろうか

だからこそパリでの奥村土牛との二人展で パリッ子たちを大いに驚かせ 

ゴッホやセザンヌに決して負けていないではないかと大賞賛を送られたのではないだろうか

本物を観よ 東洋の心を信じよ 生命の躍動を感じよ 死せるまで一切が生であると 心から叫び切っていた

 

『年を取っても 今までの蓄積は当然若く研ぎ澄まされたままなのだから 死ぬ瞬間まで衰えることはなく創造者であるべき』(中川一政)

 

 

 

中川一政は生前贈与と言う形で静岡県に 絵などの多くの寄贈を申し出た

ところが展示する予算がないと言うニベもない返事で当惑していたところ 何とたった四千人しかいない真鶴町で引き受けると大合唱

各所帯から多額の寄付金が集められ そうして真鶴の中川一政美術館は建造されて出来た 町民の大いなる誇りとなった

私はここに何時行っても 血が逆流するような感動を覚える 永遠に先生は我々を若返らせ エネルギーをくれ続けている

 

 

東海道本線真鶴駅から降りて行くと 半島に原生林がある その手前に先生はいつでもいて

皆さまを暖かく迎えてくれるでしょう 館員は全員が町の職員で親切

そうして先生の絵を観て きっと身体全部が熱くなって 生きる歓びを与えられて帰途につくに相違ない

                                                                                (2005/2/5  先生の命日に書く)

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