時雨(しぐれ)て!

 

 

時雨(しぐれ)て

 

時雨とは時雨と書く字の通り 一時的な通り雨のことで 多少の弱い風をともなうものである

旧暦十月 現在の十一月を『時雨月』とも言うように 秋と冬の境に降る秋時雨が最も多く

これは日本独特のもので 海外にはこうした雨はない

晩秋 初冬の風は 遠くシベリアから日本海を渡って吹いて来る

その風が海上で温められ 水分を吸収し 積雲を作り出す これは幾つもの小さな雲の塊に分かれた下層雲であるが

風に乗って 日本海沿岸に達した時には 大きく成長しており その雲が俄か雨を降らせるのである

日本海沿岸とか盆地とか山沿い地方など 

特に冷え込みや寒暖差の激しいところに多く発生し 山めぐりと言う言葉があるくらいだ

京都盆地では 北山の一帯だけに黒雲が垂れこめ やがて音もなく 冷たいネズミ色の雨が降って来る

だが市内では 陽が照っていて 市内の南半分は晴れているのである

これを北山時雨(きたやましぐれ)とも 片時雨(かたしぐれ)とも呼ばれていて 

山茶花の頃の雨なので 山茶花時雨(さざんかしぐれ)とも言うのかも知れない

 

 

 

古来多くの歌人から 時雨については 夥しい数の歌詠みをされて来た

光から影へ 温暖から厳冬へ やがて師走へ どこか心が急くものがあり そこが美しく 

そしてそこには ドンと無常感が座っていて 文人墨客達の情念を 否応なく刺激して来たのであろう

今日は 歌詠み人達の時雨のお話は 残念だが 別な機会にすることにして 近世近代文人の時雨を書かせて頂こう

 

昭和の第二次世界大戦前 一人の女流小説家が 1938年後半 女性で初めて芥川賞の栄誉に浴した

中里恒子(1909~1987) 北鎌倉・円覚寺に眠っている素敵な女性で 横光利一に師事し 川端康成や堀辰雄とも深い交流があった

彼女の中では 素晴らしいエッセイなどが特別有名であるが 最も有名にしたのは 小説『時雨の記』や『忘我の記』ではなかろうか

特に『時雨の記』は近年 吉永小百合と渡哲也が共演して 美しい映画が撮られたので ご存知の方も多かろうと思う

だが残念なことに 映画ではビジュアル的に 茶道家の主人公が 華道家になっていたりして 今ひとつモノ足りなかった

つまり中里恒子の持つ上品な情念に やや欠如しているような気がしてならなかった

知人の華燭の宴で 偶然に再会した一組の男女 片方は結婚しているオトコ 仕事に精を出すオンナ一人

哀切な イノチの限りを尽くした大人の恋を 典雅な筆致で 見事に描き切った力作だが 映画には少々がっかりした

更にありふれた男女の不倫の話でも 渡邊淳一のその種のものとどこが違うかと言えば 主人公の男女中心にしか

描かないのが渡邊淳一で 中里恒子の方は 二人を取り巻く周辺や環境や細々とした事象にまで 愛惜のこころが行き渡っている点が違う

オトコは 愛人の胸で死ぬ オトコの妻はやや誇張されて悪い人だとされ そこだけが不満だが それでも充分神経が使われているからいいのだ

 

『ひとが、ひとを好きになる、仕方のないことではありませんか。』 多江の言う

 

 

『晩秋のしとしとした日に、多江は、あの道を壬生と歩くやうな気持で、最後にいった小倉山の、

時雨亭のあたりをたずねてみました。壬生は、そばにゐました。・・・・・・・・・・・・

多江は心のなかでは、墓は、ここでよかったのです。あのときのやうに、ひと影も稀でした。

時雨がさっと降りかかり、また晴れました。山から吹き下ろす松風だけでした。

花もすみれも在りし日や

爪くれなゐに鶯の

まだ笹鳴も戀の夢

都忘れの池水に みだるる葦の葉ずれさへ

鼈 沈みゆく秋愁ひ

あらざらむ 萩の葉かげのうたたねの

かへらぬ旅にたたんとは

今ひとたびの逢ふことも

なくてぞもみぢ散りにける

時雨そもみぢ散りにける

多江が、壬生におくる、ようやく出来た弔詞でした。これは、これからもひとりで生きようとする花も、

もみぢもなくなった、女の一生の集約でした。冷たい松風も一緒に。』 

 何とこの上記文章の物語は 中里恒子68歳の時に書かれた驚愕の品格ある恋物語で 『時雨の記』より抜粋させて戴いた

 

 

更に時雨に関わるもう一つ申し上げたいことがある 陰暦10月12日は芭蕉の忌日で 

義仲寺に 義仲のお墓の隣に埋葬されている崇敬する芭蕉翁にお願いがあることだ

今では11月10日前後 義仲寺で 芭蕉翁の『時雨忌』が催されているが

その『時雨忌』なる忌日名を どうしようもない或る一人のオトコに 差し上げて貰えないだろうかと言うことである

翁には 時雨は特別に似合っているとは思っていないし 『時雨忌』を『翁忌』とも呼ばれているではありませんか

俳聖・芭蕉として 後輩の俳人の為に ここは一肌脱いで貰えないかと言う 我が侭なお願いなのである

「ばせを忌と 申すも只 一人かな」(一茶の句 只=たったと詠む)のように 『芭蕉忌』でいいのではないかとも

 

そのオトコとは種田山頭火(1882~1940) 山口県防府市に生まれ 妻子を捨て 世間を捨て 行乞(ぎょうこつ)の悲惨な人生を生き

自然と一体となり 自己に偽らず 自由奔放に自己の自由律俳句を詠い続けた山頭火は 生涯実に8万4千句も詠み捨てた

九州や永平寺を廻り廻って 昭和15年松山に来て 念願の四国の遍路旅を終えた山頭火に 松山の俳人の一人から 空家を見つけて貰った

御幸寺山麓の御幸寺境内のその空家だった そこを『一草庵』と名付け 「おちついて 死ねそうな 草萌える」と詠んでいたり

「朝は 棲みきって おだやかな流れひとすじ」や「夕焼うつくしく 今日一日つつましく」と 人生初めてぐらいの落ち着いた句に充ちていた

 

然し行乞放浪の最期の句はそれらではなく 諸説色々あるが 私は 山頭火11歳の時 夫の放蕩が原因で 

自宅の井戸に飛び込み自殺して果てた母の面影を 山頭火は 終生忘れ去ることが出来なかったのではないかと想像され

だからこそ 妻子を捨ててまで 鬼の行乞せざるを得ず 修羅の道を歩いたのではないか そして

「母とゆく この細道の たんぽぽの花」

小生はこの句を 最期の句として押したい そうでなければ 山頭火は永遠に救われないとの 強い思い込みがあるからである

 

時雨に纏わる幾つかの俳句をあげてみよう

「泊めて くれない村の しぐれを歩く」 (昭和5年10月1日 日南海岸にて)

「しぐるるや 人のなさけに 涙ぐむ」 (昭和5年11月11日 湯布院にて)

「右近の 橘の しぐるるや」 (昭和6年12月27日 大宰府にて)

「大樟も 私も犬も しぐれつつ」 (同上 同じ日で同じ場所にて)

「うしろ姿の しぐれてゆくか」 (昭和6年12月31日 飯塚にて) 他にも多数あり

 

昭和15年10月10日 松山の句会『柿の会』に起きて来るはずだった山頭火は 

コトリとも音をさせず その晩未明11日 死亡が確認された

芭蕉翁とは 雲泥の相違があるのは充分に分かっているが 弟子もなく家族もなく寺もなく 自由律俳句の中に生きた可哀想な山頭火に

『時雨忌』の忌日名をあげて どうしようもない山頭火を せめてねんごろに弔ってあげたい一心になるのであるが 芭蕉翁 如何だろうか

 

又 たくさんある山頭火の句碑の中で 小郡駅前にある句碑の一文を紹介しておきたい

自らが言う「どうしようもない私」のオトコが 吐き捨てたどうしようもない言葉なのであろうか 享年58歳であった

 

雲の如く行き

水の如く歩み

風の如く去る

                  一切空   山頭火

 

                                                                                                          (2004/11/10)

 

広告
カテゴリー: 文学 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中