山居独考(さんきょどっこう)

                         

                                  高村智恵子 手製の刺繍つき小物入れと般若心経

 

 

 

 

山居独考(さんきょどっこう)

 

 

 

『山居独考』と題する私の書いた芝居がある 

去年 いきなり手持ち無沙汰になった手術の前後に 一気に書き上げた

 

『山居独考』とは 高村光太郎が 彼の最晩年に 岩手県花巻市の在郷

 山口部落の小さな小屋で暮らした七年間の独白の一人芝居の題名である

 

山田耕筰やサトー・ハチロー・藤田嗣治など 

殆どの文人・画家達がそうであったように

光太郎も戦争肯定をし その激しい反省もあったろう

 

だがあの戦争は 何もかも知らされていただろうか

4年間の戦争で 勝利に沸いたのは 

たった半年だけで 無謀極まりない

単なる侵略戦争であったではなかったのか

 

藤田は石持て追われる如く日本から追放され 

パリに逃げ フランス国籍を取り 二度と日本の土を踏むことはなかった

 

山田耕筰は 平然として 新しく交響楽を書いた

 

軍歌を主に作っていたサトー・ハチローは 戦火の中で明るい歌を

と言う発想で創った歌が 戦後爆発的に 庶民に受け入れられた『リンゴの歌』であって

サトーには 戦中の反省どころか 歌の大ヒットでいい気なものだったろう

 

 

光太郎は 宮沢賢治を頼って 岩手県へ

そうして山篭りをしながら どうしても それなりの贖罪をしたかった

更には 愛する智恵子に対する綿々とした哀悼

本当に お粗末な三畳一間の小屋で 寒い冬などは 

顔に雪が積もらないように頬被りをして寝た

 

木彫をし 書を書き 光太郎は最期の生命の灯りを点す

そうしてあんなにも愛していた智恵子を 夢の中でモデルにして

『乙女の祈り』(十和田湖畔に立つ)の構想を練る

 

光太郎は 南無と言う捨身をし 創造に掛かるのだが

この般若心経の影響も又 智恵子からのものであった

 

「智恵さん どうして 私を置いて さっさと逝っちゃったの」

 

光太郎の胸に去来するのは エリートとして育てられ

官費の海外留学までし アメリカやフランスまで行き 

荻原守衛と ロダンにまで逢って 

煌びやかに光彩を放つ光太郎は 

既にそこには幽かで ひっそりとした日々しかなかった

粗末な山小屋で 何と最晩年の七年も籠もっていなければならなかった

 

  

昭和24年の光太郎の山荘での書 般若心経の一節

 

 

『智恵子抄』では 七年の狂気と表現されているが智恵子(45歳時)の

狂瀾怒涛の狂気は それより10年近く前から その兆候は始まっていた

無骨な 東京育ちの光太郎には 細部まで理解することは出来なかった

当時の田舎モノと都会人の間には 想像を絶する雲泥の差があった

アトリエに小さな畑を作って遠慮する智恵子 細部まで見えない光太郎

もしこの二人が悲運の夫婦として 結論づけられるとしたら

まさに この一点に絞られてもいい

 

 

『あどけない話』

 

智恵子は東京に空が無いといふ。

本当の空が見たいといふ。

私は驚いて空を見る。

櫻若葉の間に在るのは、

切っても切れない

むかしなじみのきれいな空だ。

どんよりけむる地平のぼかしは

うすもも色の朝のしめりだ。

智恵子は遠くを見ながらいふ、

阿多多羅山の山の上に

毎日出てゐる青い空が

智恵子のほんとの空だといふ。

あどけない空の話である。

 

あどけない話で片付けられているが 実はここに重要な鍵がある

智恵子の故郷福島の気風が 満身に残る智恵子と

光雲と言う巨人の彫塑家を父に持つエリート・光太郎と

決定的に何もかも違う人間性が 浮き彫りにされている詩である

 

死んだ智恵子が遺して逝った数千点の切り紙の絵は

折にふれ 光太郎が持ち込んだ色紙や包装紙などで

狂気のまま 創り続けた結果だ

見せてと光太郎が言った時だけ

恥ずかしそうに 缶から取り出して見せた

 

智恵子の切り紙細工 『さくら』

   

智恵子切り紙細工 『クリスマスツリー』

 

 28歳で 嫁に行く 結婚を反対された二人は 戸籍など無視

大事なことは 二人が愛し合うこと ただそれだけであったが

智恵子が40歳過ぎてから 徐々に可笑しくなって 45歳でついに発病

千葉の九十九里などに転地療養をするが 結局都内の南ゼームス坂病院に収容される

時48歳 先に僕が逝くとしたら 智恵子が可哀想だと その時初めて入籍を果たす

あなたなら こんな入籍をするでしょうか 驚くべきことでしょう

 

そして智恵子52歳の若さで他界 光太郎は嗚咽するばかりだった

今その病院跡地には 『レモン哀歌』の歌碑が立っている

 

 

『レモン哀歌』

 

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた

かなしく白くあかるい死の床で

わたしの手からとつた一つのレモンを

あなたの歯ががりりと噛んだ

トパアズいろの香気が立つ

その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉に嵐はあるが

かういふ命の瀬戸ぎはに

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時

昔山巓でしたやうな深呼吸一つして

あなたの機関はそれなり止まつた

写真の前に挿した櫻の花かげに

すずしく光るレモンを今日も置かう

 

                   

                      切り紙細工 『果物籠』                                           切り紙細工 『青林檎』

 

あの山小屋で 光太郎は考える

強引に結婚した二人は 果たして幸せだったのか

何故もっと早く智恵さんのことを 細々と気付いてやれなかったのか

そこには戦争賛美の反省や世間の批判など 結局どうでもよかった

そうするしか 芸術家は生きて行けなかったからだ

 

生前智恵子は 光太郎が創った小さな作品が完成すると真っ先に智恵子に見せ

大歓びする智恵子は それを大事そうに 胸の奥に仕舞って 

真夜中に 嬉々として そんじょそこらじゅうを飛んで走り廻った

 

芸術は 世界の文化発展の為なんか大袈裟なものじゃない

一人の愛する女性が かくも歓んでくれるのが 創作のモチベーションだと

光太郎は 静かに述懐する 少しずつ遠くなる記憶を たった独りで噛み締めながら 

 

 昭和2年製作 木彫の『桃』

 

 大正13年製作 木彫の『蝉』

 

  

 大正13年製作 木彫の『石榴』

 

昭和20年 東京のアトリエが 空襲により炎上してから ずっと岩手の山の中

七年の光太郎の贖罪の儀式が終るようにして

智恵子の夢の中の裸体を 必死になって何枚も描いた

 

 

『荒涼たる帰宅』

 

あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ 

智恵子は死んでかへつて来た。

十月の深夜のがらんどうなアトリエの

小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、

私は智恵子をそっと置く。

この一個の動かない人体の前に、

私はいつまでも立ちつくす。

人は屏風をさかさにする。

人は燭をともし香をたく。

人は智恵子に化粧する。

さうして事がひとりでに運ぶ。

夜が明けたり日がくれたりして

そこら中がにぎやかになり、

家の中は花にうずまり、

何処かの葬式のやうになり、

いつのまにか智恵子が居なくなる。

私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。

外は名月といふ月夜らしい。

 

光太郎は 岩手で 最期まで思い悩んでいるわけにはいかなかった

智恵子を 永遠に残して置いてあげよう それが私の最期の仕事

 

 漸く構想が出来 

十和田湖畔に建てる『裸婦像』を仕上げる為に上京する

翌昭和28年には遂に完成し 智恵子の面影そっくりの『乙女の祈り』は

 永遠に十和田湖畔に立つことになる

 

益々創作意欲が燃えていた光太郎だったが

きつい山居の時に出た激しい消耗の末

夥しい喀血 既に重い肺結核に落ちていた 

 

山居独考の仮借なき自己との対峙の結果であったと言っていい

私の書いた芝居は ここで終わる

 

昭和31年3月 光太郎72歳 波乱の生涯に幕を閉じ

染井吉野の櫻の故里 駒込の霊園に 今二人は仲良く眠っている

死んで この二人はようやく 平穏な生活を勝ち得たと言うのだろうか

ここにも 両方に言える時代の犠牲者がいたように思う

 

  

縮小版の試作像 『乙女の祈り』

 

圧倒的なパワーで この像二体一対が 十和田湖畔に すっくと立っている

智恵子の生命力と光太郎の愛情とが 渾然一体となってそそり立っている

 

一方尊敬する白洲次郎・正子夫妻のように 

生涯仲睦まじく 最期までまっとうするご夫妻もいる

 

光太郎・智恵子の結婚は失敗ではなかったかと言う批判を 私は断じて赦さない

 

殆どのご夫妻は ボタンの掛け違いのまま 

生涯を終えようとしているかのようだ でも皆それぞれに真実がある

 今日のように 熟年離婚とか 墓石に一緒に入りたくないとか 

そんなご夫妻が多いことも よく知っている

 

でも愛して一緒になったならば 

智恵子のように狂ってでも愛し続ける人がいい

 

折角又とない人間に生まれついて 出逢いと別れは 余りにも軽くなっていないか

今朝も 光太郎と智恵子の霊位に こころから読経を捧げてから これを書き始めた

南無大師遍照金剛!皆さまに 少しでも多くの幸いを!!

 

 

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