オブリガード!高野悦子さん

 

 

 

 

オブリガード!高野悦子さん 

挫折からの蜂起>

 

 

 同姓同名で 高野悦子と言う有名人は二人いらっしゃいますが 『二十歳の原点』の故高野悦子氏ではなく 岩波ホールと言う小さな映画ホール総支配人の高野悦子さんに焦点を合わせて 今日はお話させて戴きたい

 

 

 

    (夢 そして挫折)

 

 その夢は 女子大生の19歳の時に抱きました 一本の映画を観て感動し 必ず映画監督になりたいと若き高野悦子は考えたのです 1951年日本女子大卒業後 翌年東宝映画文芸部に一時在籍をするのですが 文芸とは名ばかりで 使いっパシリでしかありませんでした そこで六年在籍後東宝映画を辞め フランスに渡り 1958年にパリ高等映画学院(イデック)監督科に入学するのです 夢と希望がいっぱいでした 1961年に 同校を卒業するまで 若い仲間達と一心腐乱に映画論議をしたり 映画漬けの青春を謳歌するのです 卒業する一年前高野悦子は 一人旅をします ポルトガルに行ったのですが ここで同級生のパウロ・ローシャに 海辺の街オヴァールやリスボンなどを案内され 約450年前の大ポルトガル時代に 日本に始めて鉄砲を伝来させた国に 限りない興味を持ったのです 二つの国の文化の交流 そこに目をつけた高野は キリスト教も鉄砲も持ち込んだポルトガルを題材に映画を創ろうと 意気揚々に日本に帰って来るのです 直ぐに映画界が受け入れるはずもなく 最初テレビの仕事ばかりでした 紅一点の女性演出家でしたが それに飽き足らず ついにテレビ局まで辞め 本格的に脚本を書く為に 五年ぶりに再びポルトガルに行くことになります 最初の旅から五年後 ポルトガルに降り立った高野は 先ずポルトガルを教えてくれる教授に出逢う努力をするのです リスボン大学歴史学の第一の権威者ヴィットリノ・ネメジオ教授が思いがけず買って出てくれたのです それから一年間 高野はネメジオ教授から徹底指導を受けます 16世紀には日本人の留学生もいたと言うコインブラ大学 ここは歴代の国王が学長を勤める由緒正しい大學ですが そこにも通い 有り余る豊富な資料を 丹念に調べたり 教授と二人三脚の充実した日々でした 教授が言います 二つの国の根本的なところまで迫り切らないと その脚本は書けないだろうと 30歳を過ぎていた高野には 少々辛い修行時代でしたが ナニクソ精神で頑張って ようやく脚本を完成させたのでした 戦争や天災の被害を受けたことのないポルトガルは移民大国です 高野は ヨーロッパ南西の端サグレス岬に立って エンリケ王子を思い出します 地球は丸い 真っ直ぐに出て行けば 必ずポルトガルに帰って来れる サグレスに海洋学校を建てたほどの王子を偲び 必ず成功裡に終えて見せると誓い 日本に帰って来るのです 脚本は大映に持ち込まれました 当時永田天皇と呼ばれたワンマン社長は呆気なく 高野の作品を 高野とローシャの監督でと言う話を あっさり別な日本人の男性監督に交代し 外人もアメリカ人で撮られました 著作権を訴えるしかなく 高野は永田と争います イデック時代の仲間達にも面目はありませんでした そうして漸く一年後裁判は結審し 高野の勝訴に決定するのですが 最早映画は撮り終わっていました 映画『鉄砲伝来記』の表題に 僅かに高野の名前が出ただけでした 完全な挫折を味わうのです 大いなる屈辱でした 引き篭もる高野 時代は未だ女性の進出を認めようとしない古い体質の映画界でした

 

 

 

    <夢の続き>

 

 処が 人は そうそう努力する人に冷たくはありませんでした 悶々の情を抱き日々を過ごす高野に 川喜多かしこなどから 一つのお誘いが掛かります それは新しく出来るホールの総支配人の仕事でした 川喜多などの強い説得が 彼女を動かします 商業主義に乗らない隠れた世界の名画を発掘し上映しようと言うのです 高野は これも映画関係なんだからと言って 直ぐに引き受けました この受諾こそ その後の彼女の運命を大きく変えたのでした 海のものとも山のものともつかない仕事に 何故飛び込めて行けたのか 運命とはかくも面白いものなのでしょう 客席数220名 今ではミニシアターは珍しくありませんが こうしたスタイルのそれこそ元祖そのものであったのです 当時は 商業主義からはみ出た優れた映画に 事欠きませんでした それでも高野は自分の目を頑なに信じ 仕入れに際しては 世界じゅうどこでも 必ず自分で見に行きました おまけに顧客になるべく方々と 『エキブ・ド・シネマ』(映画の運命共同体)と言う組織を主宰し その組織が物凄い機能を発揮して行くのでした 岩波ホールは 地方の方々には余りよくご存知ない方が多いでしょう でもここでの上映映画は 最高に良心的で 真面目に製作する人々のチカラになっていたのです この活動は それからの高野が生きる人生の原点になるのです もう40年になろうとしています 1985年から東京国際女性映画祭ゼネラルプロデューサーを初め 1997年には国立近代美術館フィルムセンターの初代名誉会長を勤め 1998年から資生堂学園の理事までなり 2004年には平岩弓枝と一緒に 文化功労賞を受賞するまでになったのです あの屈辱の時 誰が今日の高野を想像し得たでしょう

 

 

 

   <再び 夢の始まり>

 

 夢の続きは それだけではありませんでした あのローシャが文化担当と言うことで 日本にやって来たのです 鉄砲物語で 苦渋を飲まされた二人ですが 時のポルトガル大使に あのモラエスを調べて欲しいと依頼されるのです ローシャは調べて行くに従って 映画を撮りたくなっていました 日本と日本女性を限りなく愛し 徳島に果てたモラエス(当ブログ 2005年6月9日 『孤愁~サウダーデ』に 具体的に記載しております)は 生涯リスボンに日本紹介の記事を送り続けていたのです 二つの国の異文化交流の歴史を 今度は鉄砲伝来ではなく 高野がプロデューサーで ローシャが監督で 映画撮影をすることになりました 夢は抱き続けていなければならないと 高野は よく述懐します モラエス役はポルトガルで最も有名な俳優ルイス・ミゲル・シントラが当たり 日本人妻役は三田佳子でした 日本とポルトガル両国に跨る壮大な映画で 映画名は『恋の浮島』 ついに映画の夢が適った瞬間でした そして1982年カンヌでは 盛大な拍手で迎えられる高野がいました 

 1498年種子島に鉄砲を伝え 1543年にフランシスコ・ザビエル神父が日本に来て キリスト教を広め 1582年には日本人留学生を ポルトガルが受け入れて 大ポルトガルの繁栄の時代があったのです 行ったっきり帰って来ない人々を唄にした哀しみのファドがあります リスボンには樹齢300年の藪椿があります 日本とポルトガルは 半端な交流ではなかったのでした

 1993年には 鉄砲伝来から ちょうど450年の節目に当たり 日本とポルトガル両国で それを記念する行事が多数行われましたが 高野は 大統領夫人バローゾ(元女優)と 30年来の知己でした 又彼女は日本・ポルトガル協会の常任理事として リスボンで演説をしています 今では高野は 隠れた親善大使としても ご活躍なさっています

 

 

 

     <その他>

 

 岩波ホールでの上映映画で 考えられないほどの映画の本数 及びその品質が著名です あの『ニューシネマパラダイス』も ここが最初でした 『宋家の三姉妹』『フィオナの海』『山の郵便配達』『眠る男』『乳泉村の子』『美しい夏キリシマ』などなど ここから出てメジャーになった作品も数多いのですが 幾多の映画人を育てたとも言っても過言ではないでしょう そして何よりも 映画の目利きの集まる元祖ミニシアターと言う位置づけになりましょうか

 高野悦子に 口癖があります 「夢を失くしたら 人生を生きるに値しない 映画を愛するこころさえあれば 生きられる」 又こうも言っておられます 「映画の生みの親にはなれなかったけど 育ての親にはなれたような気がするわ」と 考えて見ると 映画一筋で 生きる焦点を殆どぼやかしたことがない歩みでした あの屈辱をバネにして彼女のこれまでの77年の歩みは きっと数多くの女性の希望となることでしょう 現役のいいオンナの一人なのでしょう

 

 今日は500㍍を 二度休んで歩けました 疲労していましたが 先日から書きたいと思っていたこの記事を 一気に書いて 心身ともに疲労が来て 心地いい夕方です 明日の為に 早く休みましょう お休みなさい!

 

 

 

http://www.cinema-st.com/mini/m015.html (岩波ホールの紹介URL)

http://www.iwanami-hall.com/ (岩波ホール本体のURL)

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