ワシントンD.C.櫻物語

 

 

 

 

ワシントンD.C.の櫻物語

 

  <一人の女性の秘話>

 

 アメリカの首都ワシントンD.C.(D.C.とは 政府が直接統治している都市と言う意味)に 

ポトマック川が ワシントンとヴァージニアの間を悠々と流れています 

今から80年前ここに植樹された3000本余の櫻が 今や大きく育ち 

ワシントンの いや世界の観光名所になっているのは 例年テレビで放映されるので ご承知の方は多いでしょう 

特にジェファーソン記念堂のあるタイダル・ベイスンと言う調整池がある辺りは それはそれは見事なものです 

上記写真の橋を渡り切ったところに かの有名な国立アーリントン墓地があります 

櫻は三月下旬から四月上旬まで開花するのですが その期間中約二週間 さくら祭りが開かれ 

アメリカ国民はもとより 世界各国から来られた多くの方々を楽しませています 

こうなるまでどんなストーリーがあったのでしょう (今年は3月23日~4月8日までさくら祭り)

 

 エリザ・R・シドモアと言う女性の旅行作家がおりました 

彼女は明治の初期 兄が駐日領事館の副領事をしている時に 3年間日本で過ごしています 

先ず彼女は日本各地に咲く櫻に圧倒されます(明治の頃は 今の状況の5倍くらいの櫻があったと考えられます) 

特に向島や荒川堤に咲く櫻がお気に入りでした 

更に時代は日露戦争があって ロシア兵の捕虜収容施設があった松山収容所における 

捕虜の取り扱いをつぶさに見て エリザは酷く感動したのです 

捕虜の取り扱いは さすが日本 武士道の精神でこのような立派な扱いをしているかと 

彼女はそれをテーマにして 小説を書き発表したくらいでした 

エリザはどうにかして この美しい日本の精神性の象徴である櫻を 

本国に持ち帰り 咲かせることが出来ないか 帰国後も執念を持って奔走するのです 

大変な苦労をなされたようです 10年目を迎えようとしていた時 

エリザは時のタフト大統領夫人ヘレンに 直接嘆願書を提出するのです 

それにこころから感動した大統領夫人ヘレンは 開発中のポトマック公園に 櫻を植えようと決心をしました

 

 櫻の植樹を日本に橋渡ししたのは ジアスターザやアドレナリンの研究で有名で 

当時ニューヨークに住んでいた高峰譲吉博士でした 

ポトマック河畔に櫻を植樹したいと ニュースで知った博士は 早速東京市長尾崎行雄に連絡しました 

ニューヨーク在住の水野総領事も 当時の小村寿太郎外務大臣宛てに 

日米両国の親善の為に是非櫻を寄贈して欲しいと書簡を送っています 

それを受けた尾崎行雄は それはいいことだと 早速苗木業者と契約し 2000本の苗木を準備し 

日本郵船の加賀丸(運送費無料)に載せたのです 1909年のことでした 

待ち兼ねていたアメリカ側は着いた苗木を調べると 愕然とします 害虫だらけの櫻の苗木でした 

検疫に引っ掛かってしまったのです 仕方なくすべて焼却されてしまいました 

そのことを知った尾崎市長は 今度こそ下手を出来ないと考え 

接木をする穂木(荒川堤の櫻を使用)の選定から 苗木を造る場所(兵庫県川辺郡の東野) 

苗木を育てる場所(静岡県興津園芸試験場) そして農林省の技官等に 

害虫混入の除去方法の解決を命じたり 日本国中は大騒ぎだったのです 

そして遂に1912年櫻の苗木6040本を積んで出航したのでした

 

 今度は完璧に見事な苗木だと絶賛され 愈々その時が来ます 

1912年3月27日ポトマック公園で 最初の植樹式が行われました 

ヘレン・タフト大統領夫人と珍田駐米大使夫人と もう一人あのエリザの手によってなされたのです 

最初の植樹した時の樹のもとには 今でも記念プレートが埋め込んであります 

その時3020本すべてが植えられ 高峰博士の希望で 

残りの3040本は ニューヨークのハドソン川開発300年周年記念事業の方に 手渡され 植樹されました 

 (ワシントンの櫻の内訳は染井吉野1800本 一葉160本 関山350本 有明100本 

普賢象120本 白雪130本などなどです ニューヨークでも染井吉野が半分と残りが八重櫻です)

 

 

<ハナミズキの返礼と影>

    

 それらの返礼として アメリカ側からはハナミズキの花 

1915年農務省のスウィングル博士の手によって40本の苗がもたらされました 

その2年後に 今度はピンクのハナミズキ12本が贈られ 日比谷公園などに植樹されて行ったのです 

ところが先の大戦で 日米に不幸な戦争がおきた時 日本の軍部独裁者の連中は 敵国の花など 

皆切ってしまえと発令し 殆どが切り倒されてしまいました 

戦争が終わって 何とかその原木がないかと 国中を探索した結果 

何と東大付属小石川植物園に その原木が一本が残っていました

 

 ワシントンの櫻も例外ではありません ところがさすがにアメリカです 

花には罪はないよと 反対者を押し切る声が多く 櫻はそのまま残っている結果が 今日の爛漫たる櫻なのです

 

 

<その後のエリザと日本>

 

 その後のエリザのことをお話しましょう 

1856年ウィスコンシン州マディソン市に生まれ 1884年に日本に来ました 

武士道と言う概念に多くの魅力を感じた彼女は 櫻に魅せられ 

季節を大切にする日本人を徹底的に愛しました 彼女は特に向島や荒川堤の櫻を愛しました 

新渡戸稲造とも親交を深め 1907年に 松山収容所での捕虜扱いの 武士道的な見事さを小説に書くのです 

アメリカ人にもとても愛されたエリザでした その後1925年エリザ69歳の折 

米国議会は 人種差別的な『排日移民制限法』の通過をさせた後 憔悴した彼女はアメリカを脱出 

スイスに移住してしまうのです 移住後1928年(昭和3年)72歳で その波乱に満ちた人生を閉じるのですが 

ニューヨークでは彼女の死が 華々しく大きく報道されたのでした 

その翌年 横浜の外人墓地にあった兄や母の墓所の直ぐ傍に 

彼女のお骨を持って来て 雨のそぼ降る中 納骨式が行われました 

新渡戸稲造博士が 英文で弔辞を読み上げました 

外相代理や駐米大使 横浜市長など 100名が参列したのです 

その雨はエリザの涙雨だったのでしょうか 歓喜の涙雨だったのでしょうか 

それから時が経ち 太平洋戦争の記憶も薄れ行く中 平成3年(1991年)に 

ワシントンから里帰りした櫻4本が 彼女の墓地の背後に植えられました 

櫻に対するエリザの執念と言うものは 決して忘れられるものではありません

 

 40ヶ国4500名の方々は 日本の近代化に貢献した宣教師 技師 教師 ジャーナリストなどの人々ばかりでした 

彼等が眠る横浜の外人墓地 当初日本政府は永久貸与と言うカタチだけで 何もしておりません 

今運営が極めて難しく 市民団体(横浜外人墓地を愛する会)が辛うじて浄財で 運営を支えているのが現状です 

官僚の無駄使いが指摘されて久しい昨今 この墓地の運営費用ぐらい微々たるものであろうし 

慙愧に耐えないところで 日本人として恥ずかしいと思わざるを得ません 

 

 

<何と淡墨櫻もあったのです>

 

 樹齢1500年と言われる岐阜県根尾村の淡墨櫻の子孫が ワシントンにありました 

ポトマック河畔 ジェファーソン記念堂の直ぐ傍のタイダル・ベイスンの堤に5本の苗木が 

そこから西へ900㍍橋を渡って行ったところに45本の苗木が植えられ 今では立派な青年の樹になっています 

アメリカ国立公園管理局によって 櫻の検疫制度に適応する為にわざわざ植えられていたものを 根付かせたのでした

 ワシントンに行かれる方がありましたら あの素晴らしい淡墨櫻の子孫達が

頑張って咲いているところを 是非見て来て戴きたいのです 

苗木を造った場所である東野がある伊丹市では 町をあげて その顕彰に勤めています 

伊丹市萩野小学校や東野地区では 寄贈されたハナミズキの原木の子孫達が植樹され 

又公園には ワシントンから里帰りした櫻が植えられています 日米友好の大切なシンボルとなっているでしょう

 

 

<雑感・多少のほろ苦さ>

 

 財団法人日本さくらの会は あの尾崎行雄を顕彰する為に作られた組織です 

理事長は必ず衆議院議長が就任することになっています 

財団では毎年さくらの女王を選び 彼女達をお連れして お祭りに加わるのですが 

今や日本の参加が常識化しています そして毎年歴代の大統領夫人によって

華やかにテープカットが行われ 開幕します 

櫻の領域は散策のみで 宴会は出来ません 

今頃40種の美しい櫻が繚乱と咲いていることでしょう

 

 のみならず 数多くの日本人がこのプロジェクトに参加しています 

東野村の久保氏などは 大恩人でしょう 農林省の技官を受け入れる為に 

自宅にわざわざ新しい家を造ったほどでした 

このプロジェクトには 櫻好きの大勢の内外の方々が関わっていたと言うこと 

改めて驚愕の目で見ながら 感慨を深めたいと思っております

 

 アメリカ人においては 世界中の植物を集めて廻ったデイヴィッド・フェアチャイルド博士は

日本で櫻を観て感動し 櫻の苗木25本を持ち帰り アメリカの自宅で 櫻の研究をしていました 

その友人で昆虫学者のチャールズ・マーラット博士は長い間 農務省に勤めていた最中 

度々日本を訪れ 苗木を持ち帰って櫻を植え 友人のデイヴィッドと 

櫻のもとでお茶会などの真似事をして楽しんでいました 

その上フェアチャイルド博士は 自宅の庭で育てた枝垂れ櫻を 毎年小学校の校庭に 寄贈して行ったのです

 

 何よりもエリザが感動した日本の軍部 明治の頃は 彼女が愛した武士道がはっきりとあったのでしょう

 櫻さえ別個な印象に映ったかも知れません でも太平洋戦争の頃は 武士道は全くありませんでした 

東南アジアの石油の利権を巡る争いが戦争の発端です 美意識を失った日本を 

エリザが生きていたら どんなにがっかりしたことでしょう 

残酷無比な行為しか残らなくなってしまい どんなことでも美意識の失った行為は 

すべて無意味であるばかりか 将来に渡って永久に禍根を残すことになるとは 

誰かが気付いていなかったのでしょうか

 

 私が3歳の時から35歳まで お付き合いしていた同い年のフィアンセと別れたのも 

このワシントンの櫻祭りの日でした 彼女は当時マサチューセッツ工科大学にいて DNAの研究に没頭していました 

詳細は申し上げられませんが 私はこのお祭りに参加した日のことです 

決定的なことがあって 私は私から別れを告げました 

それから 私はもう直ぐ40歳になると言うのに 独身を頑なに守って来ました 

ワシントンの櫻は本当は書きたくなかったのですが エリザのことは書きたかったし 

そろそろ次に 私も大きく飛翔しなければならないのでしょう 

ほろ苦い思い出の残るワシントンだからこそ やはり書くべきだったかも知れません

 

  

 

 ≪参考≫

http://www.nps.gov/nacc/cherry/history.htm (ワシントンの櫻の歴史)

http://www.nps.gov/nacc/cherry/ (アメリカ国立公園管理局ホームページ)

http://memory.loc.gov/ammem/today/mar27.html (最初の植樹祭の記録が書いてある)

http://dcpages.com/Tourism/Cherry_Blossoms/Web_Sites/International/(ワシントン観光)

http://www.eonet.ne.jp/%7Eneo1/sub4.htm (根尾村の淡墨櫻の記事があります)

 

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