櫻史

 

 

                                                          パソ画 『春・惜別の』

 

           櫻史
 
 
 
     古代の櫻>
 
 弥生時代になり 水田の耕筰をする頃になると 既に本邦には 南方系の櫻(山櫻 里櫻など)と北方系の櫻(丁字櫻 千島櫻)などの櫻は既に存在していた 『さくら』の「さ」は田の神であり 「くら」とは神が依り付くところと言うことであって 『さくら』 つまり田の神の出現を意味するものであった 又別に 安産などでご利益があるとされている浅間神社のご神体に コノハナサク姫がおられ 万葉神道以前 「や」は「ら」であった読みから コノハサク姫ではないかとの憶測もある
 花を鑑賞すると言う文化が中国から入って来ると 中国で名花とされる梅が 先ず日本でも尊重されるようになる 当時の文化人は挙って梅を愛した 万葉集では 大伴旅人邸で催された花見の宴での歌32首を初めとして 梅を題材にした短歌・長歌が 櫻より遥かに多く歌っていた
 ところが都が京都の移って間もない弘仁年間(810~824年)に 神泉苑で行われた花見では 花は櫻に変化していた そして『古今和歌集』(905年)になると 梅より 遥かに櫻の方が多く詠まれ 吉野は既に櫻の名所になっていた(蔵王堂のご神体が櫻であった為に 信者が自ら持参してお手植えした) 京都御所の左近の梅が 櫻に植え替えられ 花見と言えば櫻の花見になっていた 平安貴族達は 邸内に櫻を植え 櫻の名所に出掛け 花の下では蹴鞠(けまり)や歌会(うたかい)をして興じていた 『後拾遺和歌集』(1086年成立)は 完全に櫻の歌集と思われるほど たくさんの櫻の歌が収録されている
 
 

                                           パソ画『浅き夢見し』

 

     中世の櫻>

 

 このような傾向は 時代が進むに連れ 一層激しさを増して来る 定家に代表される歌人は 櫻の歌の名手であった 『新古今和歌集』(1205年成立)では その傾向が決定的になり 櫻の歌人と呼ばれた西行の『山家集』においては 辞世の句「願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の望月の頃」をはじめとして 百数十首にのぼる櫻の歌が収録されている

 又13世紀初頭に描かれた『平家物語』中 櫻の大好きな平茂範(たいらのしげのり)卿を 櫻町中納言と呼んだ『櫻物語』は 時代が下って 室町時代に謡曲『泰山府君(たんざんふくん)』として 脚色されている 同じく『平家物語』の 平忠度(たいらのただのり)卿の山櫻の歌「さゞなみや志賀の都やあれにしをむかしながらの山ざくらかな」の名歌を遺し 『平家物語』には 他の平家の公達(きんだち)の死を 櫻に事寄せ たくさんの名歌がある

 源頼朝は1191年に 鎌倉に幕府を作るが 三浦半島の三崎に 櫻の御所を設け 花見の宴をはったと伝えられている 当時の貴族や武士が 絵物語に盛んに描かれている 源為朝の愛用した小櫻縅の鎧(こざくらおどしのよろい)などによって知ることが出来る 刀の鍔(つば)に多く櫻の文様が登場したのも この頃であろう 鎌倉時代末期の作と言われている『天狗草紙絵巻』には 醍醐の花見の起源と見なされる三月の法華会(ほっけえ) つまり醍醐の櫻会の様子が美しく鮮やかに描かれている

 足利三代将軍義満は 自ら造営した金閣寺に 八重や一重の櫻をたくさん植え 更に室町の居舘にも 櫻を多く植えたので「花の御所」と呼ばれていた 後年尾崎紅葉が 狂言を書き 『見物左衛門』と言って 別名「花見」と呼ばれていたぐらい京都の一般庶民は 京の櫻の名所をあちこち見て歩くと言うことになった 又『花折(はなおり)』と言う狂言では 花盗人が面白可笑しく演じられている

 安土桃山時代になると 櫻の文化は満面開花の様相を呈するようになる 秀吉の催した吉野 及び醍醐の豪華絢爛たる花見は その代表と言えよう 『風俗図屏風』や『洛中洛外図屏風』など 貴賎老若男女 様々な群集が 花のもとで踊り戯れている様子がたくさん伝えられている

 そしてそれらは着物の模様にも使われるようになり 調度品や前述の刀の鍔や硯箱(すずりばこ)や茶の湯の釜や果ては棗(なつめ)に到るまで 何でも櫻の絵柄が使われるようになった

 

    <江戸時代の櫻>

 

 江戸時代になると 花見は一般庶民の行楽になる 芭蕉の句に『京は九万九千群集の花見かな』とある通り 櫻は庶民のものになったのである 江戸では墨堤 上野 飛鳥山 小金井などの花見の名所が多く登場し 花見が盛んに行われた ハッツァン・クマサンの落語『長屋の花見』もこうした背景から登場する

 文学や絵画 彫刻にも盛んに用いられ 取り分け歌舞伎においては 櫻の役割は大きいものであった 『助六由縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)』『義経千本櫻』『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』の吉原仲之町の場 『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の南禅寺楼門の花の海 『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』『金閣寺』などの美しい櫻の場面 或いは『妹背山婦女庭訓(いもせやかおんなていきん)』の山の段などはその典型であろう 『妹背山』では 舞台中央に吉野川が流れていて 全山櫻の中を 二枝の哀しい運命の櫻の花枝が 大判事と大宰の後室によって 両花道を運ばれて行く 歓び哀しみの花のこころが 巧みにデフォルメされていて美しい 時には弁天小僧の刺青になり 侠客の男伊達の象徴にもなっている

 

 このように櫻の文化は 文学 絵画 彫刻 演劇 日常の持ち物から衣装 或いは花見の行動まで一般化し 櫻は日本の代表的な花になって行く この為であろうか 江戸中期以降には 花の色や形も様々な櫻が生まれている 九重櫻 王昭君 小督 太白 旗櫻 寒櫻など 三百種以上の名花が誕生し 多くの櫻の名所が生まれた 江戸・駒込の染井村と言う植木職人が集まっている部落で 江戸後期に染井吉野の品種が誕生すると 様子は更に一変することになる 根づき易く 直ぐ花をつける習性が尊ばれ あっと言う間に全国に波及して行って 花見は全国民の行事になって行った 

 但し明治ご維新後 薩長の主導のもとに 江戸彼岸や山櫻など 堅い樹の性質が利用され 鉄砲の台座となった為に 多くの名木の犠牲があったことを忘れてはならない そのことが原爆投下されるまで 日本人の心を痛め尽くしたことは言うまでもない 軍国主義の中に埋没した櫻が 一体何だったんだろうか 可哀想でならない 二度と 櫻を 権力の具にして欲しくない

 日本以外で 花見と言えば 中国の唐の時代に 牡丹の花見が盛んであったことぐらいしか 例はない 花見と言う言葉そのものが 日本語以外にないのである 櫻の花を愛で 心から楽しむ日本の花見は 日本民族の大切な行動パターンと言えよう 但し羽目を外す行為など 論外のもっての他で 花見とは言えず 単なる発散を目的にした大騒ぎだけの意味であろう 嘆かわしいことである 寧ろ櫻によってなされる日本人の誇りを回復する 再教育が必要ではなかろうか

 

  

                                   パソ画『三春の瀧櫻』

 

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