小倉百人一首の雅の痛恨

 
                                        君がため 春の野に出でて若菜摘む 我が衣てに 雪はふりつつ (詠み人 光孝天皇)
 
 
 
 
 
 
  小倉百人一首  
 
 
 
  『百人一首』として 永く人に親しまれて来た歌留多(ポルトガル語)は 江戸時代に最も盛んに親しまれていた 『百人一首』とは 藤原定家が選者となって 古今東西の和歌の名人を選りすぐったものである 天智天皇から藤原雅経まで 約六百年に渡って 一つ一つ丁寧に洞察力確かに拾い集められている 定家が時折嵯峨野に住んで その別荘『時雨亭』で考察されたものと言い 『小倉山荘色彩形和歌』『嵯峨山荘色紙和歌』『嵯峨中院障子色紙』などとも呼ばれていたが 江戸時代からは 『小倉百人一首』と愛称を籠めて呼ばれるのが一般的になったものである 定家の日記『明月記』によれば 宇都宮頼綱(定家の子為家の妻の父)が 同じ嵯峨にある自分の邸の障子に貼る色紙に染筆を頼まれて 字を書く専門家でない自分が 見苦しい処を承知の上で書いたとあった 一字一字離して分かり易く書く定家の字は この時から著名になり 定家体と言って 江戸時代の小堀遠州などの一派にも多大な影響を与えた
 
 そんな訳で 定家は自分の好みで選んだ 定家自身提唱した「有心体」(うしんたい)と言う定家なりの美意識で選んだ歌集であろう 有心体とは真実の心を持って工夫をこらしていることである つまり歌趣が奥行きの深いものを中心に選んだものである 『小倉百人一首』には 次の歌集から 多く選ばれている 古今和歌集二十四首 後撰和歌集七首 拾遺和歌集十一首 後拾遺和歌集十四首 金葉和歌集五首 詞花和歌集五首 千載和歌集十四首 新古今和歌集四首 続後撰和歌集二首 この他万葉集や私家版から選ばれて 合計百首となって構成されている
 
 歌集が選ばれた時の時代背景を少々申し述べよう 平安貴族全盛時代 我が世を望月の欠けたことなどなきが如き 藤原道長が栄華の極みを享受して余りあった その中で出色だったのが女流文学が顕著に花開いたのであって 華麗にして優雅な時代が長く続いた 四百年と言う長き時代である 処がそうしているうちに 貴族の統治下にあった地方の荘園などに 徐々に変化が見られるようになっていた もともと実態支配のない貴族の荘園である 地方豪族と武士の台頭がやがて政情不安をもたらせ 生活の不安や混沌は次第に激しく 直截な「生」と言う問題に直面して来るようになる 鴨長明の『方丈記』に見られるように人生において 『無常』と言うことを否応なしに感得し定着して来るようになるのだった 「もののあはれ」も幽玄も 華麗なものは如何に儚いものであったかと言う知的目覚めが この時代ほとんどを占めるようになるのであった 人生の深い井戸を垣間見るように 平安時代後期で 時に末法思想も相俟って 不安な世情が横溢していた 定家はそんな混乱期に生を受けた
 
 百人一首には 特に恋愛の歌が多く選ばれている 「花のいろは うつりにけるな・・・」の小野小町 「うらみわび」の相模 「難波潟」の伊勢 「君がため惜しからざりし」の藤原義孝 「恋すてふ」の壬生忠見らが 宮廷歌人として 恋の盛んなる状態の裏側にある 失う恋の哀れが 如何に「生」と「死」を左右するものであったか 恋の上手が 出世をも左右し 貴族達の生きる ギリギリの仕事でもあった そこで定家の日記『明月記』に拠れば 後鳥羽院の御幸には 白拍子あり 遊女を招いた水無瀬御幸などが その乱脈ぶりを詳細に記されていて あらゆる腐敗の限りを尽くしているのに 一方では飢饉や疫病がまん延し 一般の人身は乱れ切っていた 承久の乱 これを境に武家の支配に変わって行ったのだ 北条氏をなきものにしようと図った後鳥羽院は隠岐に遠流され 同調した順徳院は佐渡に流され そこで果てている 定家の庇護者であった後鳥羽院は なすすべての政治の暗い陥弄に 好むと好まざるに関わらず 運命を篭絡された定家の胸中は 後鳥羽院に対して敵対感すらあったのではあるまいかと 
 
 人もをし人もうらめし あぢきなき 世を思ふゆえに 物おもふ身は (後鳥羽院)
 百しきやふるき軒端の忍ぶにも猶あまりあるむかしなりけり   (順徳院)
 
 
 百人一首は 天智天皇から始まって 最後後鳥羽院と順徳院の歌が選ばれて終わっているが この二首は定家の撰じたものではなく 定家の息子の為家が 追補したものであろうと言われている 人生の転変自在の愚行を 生と死の間の重さに比較して 恋も恨みも 死ももみじも すべて定家の理想的感性で撰じられ 為家によって集大成されたものではないだろうか
 
 歌集は万葉の御世からも 多く採られていて その人その人が時代背景を如何に懸命に生きたのか 定家の風韻を伺うことが出来る 天智天皇の「秋の田の」と歌った名句には 秋の景色だけではなく 天智天皇の生きザマと気概さえ感じると思った定家だったのだろう そうした景色も 又定家の有心体の対象だったのではないか つまり巾を広げ 「こころなやます」ものの集大成が 百人一首ではなかったかと
 
 話は変るが 正月に 大人になってから初めてやっても ほとんど取れるものではない 小学生が一番強いのではないか 歌の解釈はともかくとして 記憶の仕方が違うのではないだろうか 競技にもなっている 上の句が詠み終るや否や さっと採られて 下の句の鑑賞も何もないのが一般であろう 仕方がないので 競技に参加出来ない人達は それぞれに 名歌をひたすら鑑賞するしかないのだ そんな思い込みが 私にあって この正月になってから 各家族で楽しんで欲しいと 三が日うちに 『小倉百人一首』カセット付きで約3千円の廉価な歌留多を お年賀のシルシとして届くように 三百世帯全員に手配させて頂いた 詰まらないモノだと言って捨て去るか 真面目に一読ぐらいするかは 小生の知ったことではない
 
 
 
  < 自選・好きな歌数首 >
 
 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む    (柿本人麻呂)
 
 花のいろは うつりにけるな いたずらに わか身世にふる ながめせしまに (小野小町)
 
 ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは    (在原業平朝臣)
 
 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ        (文屋康秀)
 
 ひさかたの ひかりのどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ         (紀 友則)
 
 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな   (紫 式部)
 
 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ       (崇徳院)
 
 村雨の 露もまだひぬ 真木の葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ        (寂蓮法師)
 
 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば しのぶることの よはりもぞする  (式子内親王)
 
 来ぬ人を まつほの裏の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ     (中納言定家)
 
 尚 当家先祖代々の菩提寺である 京都・御室の仁和寺を 最初に 寺社を建てるべしと発願された方は 光孝天皇であらせられる 彼の御歌がある 「君がため 春の野にいでて 若菜つむ わか衣てに 雪はふりつつ」の御歌は 小生が愛してやまない歌の一つである 従って巻頭の口絵にも 光孝天皇の 御影にご登場願いましたことを お断りしておく
 
 
 更なる口絵は
 
 在原業平朝臣   式子内親王
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