能の歩き 坩堝を経て

 
                                                                                                     卒塔婆小町 シオリ(泣き)
 
 
 能では 歩き方に 顕著な特徴がある 鏡の間の幕があがると どこから来たものでもない女が つま先から すっと前に出 少しだけつま先を上げ下げ 歩いて来る 踵はぴたりと地について離れぬようだ 永遠に歩き続けるようであり そこにずっといるようでもある 序の舞から 中の舞にいっても ぴたりと着いた足は動かない 稽古を充分に積んだ者なら 多分下手なチカラでは動じる隙間は寸分もない そうしてどこへなりと ただ歩いて行く 揺るぎのない歩きは 人生によくある中身のドロドロとした坩堝をとうに過ぎて 確信に満ちているかのようだ
 
 ヒッソリと橋懸りを渡って来て 橋懸りを永遠の世界へ帰る 無表情な能面をつけているが 面は上向きと下向きでは意味が違う 上向きは明の表情が入り 下向きは暗で 泣く要素(シオリと言う)が入る 唐織(からおり)とか厚板(あついた)と呼ばれる派手な織物を身に纏っているが 姿勢は微動だにしないで 凛としている すべての基本は この歩き方から来る 崩れることを知らぬ恐ろしいほどの強靭さを秘めている 不自由であろう だが次なるものへの自在さも 同時に秘めているのだ 歩むとは不退転の歩みだ 抜き差しならないものへの挑戦であるかのようだ
 
 面の口は少し開いている 閉めようとしているのか開けようとしているのか 笑っているようでもあり 泣いているようでもある だが決して喚いたり騒いだりしない 妖艶でもあり清楚でもある これも又抜き差しならない断罪の口元であろう
 
 謡いは夥しい装飾語で書かれていて 謡曲はその流れるような装飾に添って 謡われる 謡は太鼓や大鼓や小鼓に合わせられ 笛は舞と一対である それぞれの能の楽器も それぞれが抜き差しならない部分への 飽くなき挑戦へと進んで行く
 
 『善知鳥(うとう)』と言う曲がある 猟師が現世で殺生を犯した罪で 地獄に落ちて苦しむ話である 「陸奥の外の浜なる 呼ぶ小鳥 鳴くなる声は うとうやすかた」と北の海の波濤のように寒々と謡われる 外ヶ浜の呼子鳥は 砂の中に子を産んで養う 親鳥が「うとう」と呼ぶと 子が「やすかた」と言って出て来て 餌を啄ばむ そこで猟師は親鳥の声を真似て「うとう」と呼ぶ 小鳥が「やすかた」と応えて外に出て来たところを捕まえるのである この有様を見た親鳥が血の涙を流す 猟師はやがて地獄に落ち この鳥たちの苦患を味わわされる 生きようとする為の殺生をせざるを得ないとは言え 非情なること現世そのものではないかと この曲は語っている だが血の涙はひた隠されている
 
 幽玄とは現すことよりも 隠すことである 語ることよりも 沈黙することである それは最も深遠にして厳しい道なのである 能の女は涙を見せるより 隠すことをした 面も足の運びも 楽器でさえ抜き差しならない生きる為の意思として 能の美が形成されて来たのである
 
 能に秘曲とされる能がある 『姥捨』『桧垣』『関寺小町』である 最も重い扱いがなされている 何故秘曲か それは流派によっては 一子相伝の習いものであり 宗家以外は演じることが出来ない為である 滅多に演じられない この中で『関寺小町』は 全流派の現行曲になっている為に 比較的上演の栄に浴す そんなわけで 小町モノには面白いものがある いつかそれを是非あますことなく書きたい 小町に関する能は 全部で五曲ある 『通小町』『草紙洗小町』は 現役の美女時代の曲であり 『関寺小町』『卒塔婆小町』『鸚鵡小町』は 年齢が老いてからの曲である 小町モノだけで 女性の生涯を書けてしまう ただ中でも最も年齢が高いのは『卒塔婆小町』であろう 高野山の僧が都に上がると 朽木と見誤って卒塔婆に 腰を下ろしている老女を観掛ける それを咎めると 今は落ちぶれて 既に百歳を越しているから赦せと言う 老女は見咎める僧に対して 一歩も退く気配がない 法問答を仕掛けて来るばかりだ 只者ではないと 旅僧が老女に名を問うと 小野小町であるとようやく名乗り出る 旅僧が驚いているうちに かつての愛人深草少将の霊魂が 突然老女に乗移り 小町の元へ通おうと言う そして九十九夜通って 最期に尽きてしまい とうとう思いを遂げられなかった恋の恨みを現じて見せる 妖しく美しく哀しげに舞う やがて憑き物が降り 小町は元の老女となり 仏の道に入ろうと いずこともなく ようようと立ち去ってしまう 寒々とした景色の名曲である 老醜を晒す能の非情さはあるが 美女であったがゆえの 老いの余白が何とも言えない美しさがあるのである 能の風情は 老女の美に尽きる だからこそ三曲の秘曲は すべて老女モノである 女は老いて尚美しいのである
 
 抜き差しならないモノへの美の探求は 能に限らず 和歌や茶の湯や俳句や連吟や人形浄瑠璃や歌舞伎にさえ 日本文化のあらゆる美の特徴になっているであろうと思う 本日は聖夜である 外は賑やかな人の群れで溢れかえっていることであろう 孤独を守って ひたすらにこれを書いた ただキリストの生誕は すこぶる目出度く 人類にとっては 本当に有り難いものである キリストも又 抜き差しならない生涯を送った 抜き差しならないモノとは 迫真かつ究極の真実観と言うことである
 
 
 余談 ; 呼子鳥に使われているように 「子」と言う名前の字のことであるが 中世時代まではっきりしていたことがある 「子」と言うのは 小さいと言うことではなく 可愛いと言う意味である 現代にも多くある幸子とか雅子とか清子とか 「子」はみな可愛いと言う意味があることを忘れてはならない
 
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