いずれか秋にあはではつべき 祇王が恋

 
 
  嵯峨野の奥深く小さな美しい尼寺の祇王寺がある 平家物語の哀しい恋の庵である 
 
 祇王(ぎおう)と言う美しい白拍子(今で言う芸子さん)が 18歳の時 当時権勢の猛威を振るっていた平清盛公に気に入られ 政治の中心六波羅探題近くの私邸西八条の邸に 囲われてしまいます 母刀自(とじ)や妹の祇女(ぎじょ)も一緒に生活します 平家物語『祇王が事』によると それから三年余 母親には屋敷を作って宛がい 月に何百貫と言う金子も与え 蝶よ花よとの清盛から寵愛されたようでした 今のお金にすると 莫大な資金を月々に戴いていたことになります 又刀自の依頼で 清盛は 彼女達の故郷近江に 巨大な干害用水も作り 母は大いに感謝されたと 現地の寺伝に書かれています この時こそまさに 祇王の真っ赤に燃える花が 今や盛りのピークを一気に迎えた時だったのでしょうか
 
 処が或る日16歳の美しい仏御前(ほとけごぜ)と言う白拍子が尋ねて来て 是非入道さまの御前で ひとさし舞いたいと申し出るのですが 呼ばずに罷り出でるとは不届きな所業 まして祇王がいるからと 一笑に伏し 清盛は帰してしまおうとするのです そこで祇王が清盛に進言します 折角来たのを追い返すとは 自らもそうであったのだから 是非ひとさしの舞ぐらい御覧になられたら如何でしょうと 薦めるのでした 止む無く清盛は 仏御前を呼び返し 御前で 今様(今で言う歌謡曲)を歌わせると 見事な歌謡 当時の白拍子は巫女姿で歌謡や舞踊をするのが発展し 白鞘の刀を帯刀して 烏帽子を被り 凛々しく舞うのが本流でした 『君を初めて見る時は 千代も経ぬべし姫小松 お前の池の亀岡に 鶴こそ群れゐて遊ぶめれ』と 仏御前は 三度同じ歌唱を熱唱します 三度連続歌謡と言う離れ業の珍しさもあったのでしょう 機知に富んだ それはそれは凄い魅力に溢れた子に映ったのです そして舞を舞わせると 清々しい色香を放っていました 清盛は完全に この子の魅力にはまってしまいます 清盛は直ぐに祇王親子を追放に掛かるのですが その時仏御前は 祇王さまのお取り成しで 入道さまに気に入られたのですから 祇王さまの放擲は何とも忍び難いと 切にやめるように懇願するのです だが清盛は寸部の迷いもなく そして何一つ与えず 直ぐに放擲してしまいました 
 
 哀しむゆとりすらなかった祇王は 障子に『萌えいづるも枯るるも同じ野べの草 いずれか秋にあはではつべき』と書き記し 祇王親子三人は悲嘆にくれつつ 流浪をしながら詫び住まいを続けるのです 噂を聞きつけた京わらんべ達が どうや世話するでぇと何人も言い寄るのですが 祇王は 全く相手にしませんでした
 
 そんな折りも折り 一年後仏御前は依然として気に病んで 一向に気分が優れない日々 清盛は可愛い仏御前を慰めようと 祇王を探し出し 参内しろと命ずるのです 強引に放擲された以上 御前には決して行かぬと応えた祇王に 母親の刀自が一度は愛された身で 恩情がないとは言い切れまいと祇王を説得します 祇王は漸く重い腰を上げ 参内しますが 何と最も端の下座を与えられていたのでした それから仏御前も見ている前で 清盛は祇王に今様を歌えと厳しく命じます
 
    仏も昔は凡夫なり
    われらも遂には仏なり
    いずれも仏性具せる身を
    隔つるのみこそ哀しけれ
 
 精魂籠めて祇王は歌いました 歌謡の中身は 祇王にしては精一杯の抵抗だったのでありましょう その場にいた人達はみな泣き崩れたと記されています さすがの清盛も優しい言葉を 祇王に掛けるのですが 時既に遅し 二度も生き恥じを晒された祇王は自殺することを決意するのですが 母や妹の行く末を思うとそれもかなわず 嵯峨野の奥に庵を結んで出家する道を選びます 当時の嵯峨野は鳥葬のメッカで 無縁仏の集まる場所でした 人里離れた辺鄙な片田舎だったのです 親子はそれぞれ剃髪をし 念仏三昧の日々に入る決心をします 祇王21歳の春でした
 
 やがて夏も過ぎ 秋紅葉の盛りを迎えた或る晩のこと 扉を叩く音がします 親子は急遽念仏をして 邪鬼退散するように祈願するのですが 何とそこには仏御前が立っているではありませんか 彼女は「一方ならぬ恩情を戴きながら 所詮女の身 どうにもならなかったのです 貴女を考えると いずれ我が身もと思われ 障子に書かれた『いずれか秋にあはではつべき』との 祇王さまの筆の跡 それを心深く突き刺さっていたのです 漸くこの庵を探し出し この小さな空間が余りにも羨ましく思え 入道さまに暇請いをしましたが お許しが出るはずもなく でもじっと待つことは一刻をも赦せない我が心と身 夜陰に紛れて 今朝このような姿となって まかり出でたる次第」と言うのです 被衣(かずき)を取って見ると 仏御前までが 剃髪しているではありませんか 仏御前は泣きながら「日頃の罪を赦して下さい 皆さんと一緒に念仏をして 同じ蓮(はちす)のうてなの上に生まれ変わりたい」と 赦しを懇願するのです 祇王は赦すも赦さぬもない 早く上がれと言って 草庵に通し そこで四人は仲良く 尼となって 生涯を終えるのでした それが祇王寺です
 
 祇王は近江の国野洲郡祇王村出身で 父は元は北面の武士(帝のエリート親衛隊)であったのですが 保元の乱(天皇家と摂関家=藤原氏の内部抗争から 武力衝突し 平家と源氏の武士が進出をする切っ掛けとなった争い)で戦死し 一家は没落を余儀なくされました その後母刀自とともに 京都に上がり 白拍子になって みやこ一と褒め称えられるようになり 清盛の目に留まるのです そこから悲劇が始まるのですが 私は祇王を 単なる悲恋の女王と 決して思ってはいない 卑しくも父はエリート武士であった 気位の高さもあったかも知れないが 人として毅然として あの草庵で 積極的に仏道に生きた女性であったと受け取りたいのです 憐れさだけではなし得なかったことだからです 当然この平家物語の一節は 能にもこの物語になっており 『祇王』『二人祇王』『仏原(ほとけがはら)』の三曲があります 現在でも『仏原』だけは上演される機会があります 
 
 この小さな苔生した境内には 四人の墓石があります ただ面白いのは 仏間に 五体の御像が祈念の対象として安置してあります 祇王・祇女・刀自・仏御前の四人はお分かりでしょう もう一人は誰でしょう それは あの時既に60を越えても尚 色気にも貪欲であった清盛 だが間もなくアッチ死にした清盛入道どのの その御姿なのですから 興味が尽きないのです 清盛亡き後 谷から転げ落ちるように 平家滅亡が始まりますが この実話は その序章になっていたと言う気がしてならないのです 勿論後年 清盛も併せて 五体を並べたものと推測されるのですが 一度受けた恨みは決して忘れないと言う韓国の恨(ハン)と言う思想と 決定的に違う点なのでしょう 亡くなったらすべてが 仏さまであると 五体の小さな御像を見るにつけ 興味が尽きないのです 清盛とは絶大な権力者であったけれど 決して悪党だとは思っておりません 福原(現神戸)に一旦は遷都をして 海洋国建設の夢を見 貿易を実践したり 一国の宰相であったのは間違いないことです まさかそんなことはないだろうが あの五体のうち 先に逝った清盛公の御像だけを 安置し 全員で供養していたと 私には考えられなくもないのです 五体のうち 清盛公が中心に座っておられるからです そんな浪漫もあるかも知れないと 真っ赤な山紅葉が つい空想を耽けさせてくれるのだから 秋・紅葉真っ盛りの祇王寺は より一層の美しさを増し 凛として存在しています
 
 
<今年の紅葉は例年より やや遅いようです 巻頭図のような紅葉になるのは 11月も末 へたをすれば12月に入ってからだと思われます (櫻)>
 
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