『智恵子抄』前後

 高村光太郎の『智恵子抄』は くりかえし何度も読んだ どの詩も ほとんどソラで言える 光太郎の生涯を研究したモノは数多くあって 今更と書く必要がないかも知れない そこを敢えて焦点を絞ってお話したい 何故なら それでも書くべきことが多すぎるから ではどこにどのような焦点かと言えば 二人を語るのに ポイントがありそうな気がしている 『智恵子抄』は 智恵子亡き2年後に出された本だが 智恵子の死の一点に集中すれば 死の床以外にないのだろうけれど 然し そこには 二人が出て来る愛の順序が自ずとあって その歴史を追うのが ごく普通であろうと思われる 先ず千駄木時代 二人が新婚生活を送った場所である 次は智恵子が狂いはじめて 智恵子を療養させた場所の白子だろうか 更に智恵子は精神病院に入り わずかな時間で 生涯千数百点にも上る作品を生んだ場所である南品川のゼームス坂病院でのことであろう そして最後は智恵子亡き後 光太郎が静かに 智恵子を独り回顧する あの花巻の山にある粗末な山荘かと思う 私は何度もそれぞれの場所に佇んだことがある 骨太で まるで彫刻のような魂を揺さぶる多くの詩篇を残した二人だと それぞれで実感出来たのだった あの粗末な山口村の山荘の前に すっくと立つと 二人の愛の軌跡が はっきりと見えて来るから 不思議な山荘であった
 
 
 
     <千駄木時代>
 
 智恵子が28歳で 光太郎と結婚するのだが 芸術家同士の結婚の凄まじさとは 露ほども知らなかったのだろう 父光雲から反対され 入籍を無視した結婚であった 上野精養軒でちゃんとした結婚をしているが それ以前の光太郎は酷い時期でもあった 光太郎が官費留学をはたし NYを振り出しに ロンドン・パリなどを訪ねて 海外の彫塑事情の勉強をした 安曇野の碌山美術館で著名な荻原守衛などと一緒に ロダンと初対面を果たし 親交を深め やがて帰郷するのだが 日本は新しい芸術を受け入れる素地ではまったくなかった 父光雲の彫塑を見て 一目瞭然と理解出来るように いわゆる職人芸でしか 彫塑の世界では通用しなかったからだ ロダンなど夢のまた夢で 日本は近代芸術の分野から 遥かに遅れをとっていた そして光太郎は荒れた 中原中也など日本近代詩の先駆者達と 悪さをしたり大酒を飲んだり ほとんど不良でしかなかったかも知れない そんな時或る女性の紹介で知ったのが 清冽な長沼智恵子であった 一方智恵子は福島県安達郡に生まれ 地元の高女を卒業すると 日本女子大学家政学部に入学し その頃絵に目覚めていく そして卒業後田舎に帰れと言う両親を説き伏せて 再び上京し 画家数人に師事し 絵の勉強に専念していたが 当時女性解放運動を謳った平塚雷鳥らに見初められて 雑誌『青踏』の表紙を飾る絵を描いていた 先駆的な女性として 智恵子は光太郎に紹介されたわけだが 智恵子は実は内向的な静かな人であった ただ一途な人で 光太郎と急接近するものの 実家からの紹介で危うく他に嫁ぐようになってしまう そこで出たのが 光太郎の有名な詩である『人に』と題する詩であった 「いやなんです あなたのいってしまうのが」それである 「花よりさきに実のなるような 種子よりさきに芽の出るような~」と絶句して智恵子を危うく引きとどめ 何とか結婚するのですが 当時親の反対はどうにもなりません 然し大正3年二人は駒込林町で 辛うじて新婚生活をスタートさせたのでした
 
 地下鉄千駄木から近い駒込林町のアトリエは 十数年前取り壊されてしまい 現在は跡形もないが 出窓があって なかなか瀟洒なこじんまりしたアトリエであった 智恵子と言う人生のツレを得た光太郎は 彫刻や詩や評論やロダンの紹介に必死になるのだ 『智恵子抄』前半部分の素晴らしい愛の賛歌は この頃に出来たものであった 智恵子は智恵子らしく 絵や評論を描きながら 懸命に旦那さまに仕えるのだが 或る展覧会に絵を出品したところ落選してしまう それから幾ら光太郎が薦めても一向に絵を出品しなくなり そして肋膜などを患うのだ 生来「東京には空がないといふ~~ あの阿多多羅山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」ことで分かるように 智恵子は頻りに田舎暮らしに傾注して行く 芸術と実生活との残酷なまでの二重の苦渋 智恵子は自宅の庭に野菜などを 独り栽培したり 但し一途に光太郎の愛に応えて行くのだった 光太郎が彫刻を仕上げるとと 亥の一番に智恵子に見せ それを智恵子が大歓びして その作品を持って町中を駆け巡り かわいい智恵子がいつもいた 後日芸術家の創作動機は 世界の創造とか生命の尊さと指摘されるが 私はそうではなく 智恵子がこうして歓んでくれるから 造ったのだと断言している そんな生活が主な駒込林町での 一面から見れば幸福な一時期だった
 
 
 
     <大網白里 白子での療養生活>
 
   何度かその兆候があったのもの 光太郎にとって 智恵子は掛け買いが無い人であった 愛の賛歌の中に出て来る智恵子だけではなく 幾つかの証言でも言えた 必死に光太郎だけを思い続け 智恵子なりに精一杯愛した 『深夜の雪』など二人の様子がよく浮かんで来る 然し運命とは過酷である 智恵子34歳の帰省の折 愛する父が他界する そしてそのことが二人のその後の関係に大きく影響を及ぼして行くことになる 1年のうち何ヶ月間は故郷に帰り 実家の人となるのだが 帰って来て 智恵子は機織を始めたり それなりに智恵子は必死であった 光太郎40歳の頃から 妻智恵子を 再び詩にし始めた 『樹下の二人』はこの頃の代表作であろう そんな時である 実家のゴタゴタがあって 智恵子43歳の時 実家は破産した それも実父の死から派生したゴタゴタが元であって 長年に渡ったことであった 智恵子はふさぎ込むことが多くなり 次第に正常さを失って行く  実家では刑事事件まで発展して離散 母達は東京に逃げて来るのだが その事を 智恵子は光太郎に 内緒にせざるを得なかった 智恵子45歳の時 光太郎が三陸に出張中 服毒自殺を図るものの 一命を取り留めたが 精神の異常さは際立って多くなり 一層分裂症気味の状況に陥ってしまう 光太郎は温泉に連れて行ったり 甲斐甲斐しく世話をするのだが 一向によくならない そこで 親戚の九十九里浜にある 当時真亀納屋(現白子町)の海辺の村に お手伝いさんをつけて移住させた 『あなたはだんだんきれいになる』『風にのる智恵子』『千鳥と遊ぶ智恵子』『値ひがたき智恵子』『山麓の二人』はこの頃の代表作であろう 光太郎は両国から汽車に乗り 片道約4時間の行程を経て 毎週智恵子を見舞うのだ 一週間分の薬と菓子と智恵子の好きな果物をお土産にする 智恵子はそれを事の他歓び 光太郎と智恵子は砂浜で大いに遊んだと言う (光太郎のエッセイ『九十九里の初夏』で明らかである)
 
 
 
     <南品川ゼームス坂病院での最期>
 
 愈々病状は悪化 仕方なく精神病院に入れることにする 南品川のゼームス坂病院である 今はこの病院は跡形もなく マンションが建てられているが 若干の塀があって そこに智恵子を記念する『レモン哀歌』の碑だけが 当時を物語って建っている 智恵子が入院し 半年が経ち 若干機嫌がいい折を見計らって 九十九里の時と同じように 見舞いに駆け付ける光太郎であった そしてある時 千代紙が好きだったことを思い出した光太郎は 千代紙や色紙を差し入れた それが妙に気に入ったらしく 自分の旦那さまに丁寧にアタマを下げる智恵子であった ナースの証言によると 狂騒や風邪や熱を出して寝込む時以外は 片時も「仕事」を忘れない智恵子であったと言う 「仕事」とは切り絵細工のことである ある時それを見せろと光太郎が迫ると はにかむようにして 大事そうに仕舞ってあった紙細工の梱包の中を見せた 実に大量の切り絵を見せたのである それがものの見事な作品で 光太郎自身驚きに感極まったと言う この頃の代表作は『或る日の記』に書かれている (智恵子の病院内でのことは 光太郎のエッセイ『智恵子の切抜絵』に詳述されている)
 
 ここで 櫻が最も注視したい事は この病院に入る前後のことである それまで戸籍制度を拒んで来た二人だったが 3歳年上の光太郎は もし自分が先にぽっくり逝くようなことになったら 後に残された智恵子が不憫で可哀想でならないと 実質結婚をしてから 20年後智恵子を入籍させたことであろう 狂気に陥る智恵子を48歳の時に わざわざ改めて入籍をとげていること 光太郎の愛がいかに至上のものであったかを表現してるであろう だがこの4年後に 肺結核を併発して 智恵子は亡くなってしまう 智恵子52歳 光太郎と結婚し 24年経った秋10月のことであった 『レモン哀歌』『荒涼たる帰宅』『亡き人に』『梅酒』など 絶唱され 光太郎は智恵子を失った深い慟哭の日々を迎える 私はこのあたりの詩篇を 涙なくしてはたった一度も読めない 無骨でゴツゴツしてて作為がなく ストレートに表現した光太郎の叫びは 二人の軌跡を正直に物語ってあまりあるものだ 『レモン哀歌』では 死の床にある妻智恵子の最期の叫び声を聞き 『荒涼たる帰宅』では 独りでに進む葬式と言う儀式に ただ茫然とする光太郎がいて 『亡き人に』では 光太郎自身だけの弔辞であろうか 「私はあなたの愛に値しないと思ふけれど あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」と結んでいる そして『梅酒』では長く厳しい愛の姿を 梅酒を通して静かに静かに回想をして 深い感銘を与えてくれる
 
 
    <花巻山荘での自炊独居生活>
 
 光太郎は 智恵子の死後7年間ほとんど実績らしいものはない ただ智恵子抄の発行だけであると言ってもいいかも知れない やがて太平洋戦争に突入し そして敗戦を迎える 光太郎は特別な戦争賛美者ではないけれど 当時の知識人の多くは戦争批判はしなかったのだ サトーハチローや黒澤明でさえ多くの文芸人・映画監督・学者・芸術家など 終わってから あれはどうだと批判は言えるが ほとんどの人は逆らえなかったのである あの山田耕作ですら軍歌を作ったぐらいなのだから ただ光太郎は妻智恵子を失い 戦争に対する自己批判もあったのだろう 創作の目標すら掴めない戦後直ぐ アトリエの一部焼失もあって 岩手県花巻市郊外の山口村に移り住むようになる 宮沢賢治などにより紹介されたその納屋は 粗末極まりない家で 櫻は何度も見に行ったことがあるが 雪が降る日は 頬被りをして寝るしかない厳しい場所で 家中に雪が積もるくらいであったのだろう 便所の扉に「光」と言う一文字があったのは 微笑ましく忘れ難い 現在この納屋は金色堂のように 鞘堂に入っていたり 奥には光太郎の博物館があったりするものの いかがなものかと思っている 作詩をしたり本を読んだり 酷く貧乏で質素だが 勝手気侭な独居生活を 7年も送っている そしてあの十和田湖畔に立つ『乙女の像』の着想を得て 久し振りに東京に帰り 猛然と彫塑に向かう光太郎であった モデルは当然亡くなりし智恵子 十和田湖畔に その像は二人の乙女=智恵子が迎いあって立っている 独りでは淋しいかろうと 光太郎の配慮なのだろうか ただ独居生活の無理が祟って 始終吐血をするようになった光太郎は 上京4年後 73年の壮絶な生涯を終えた 智恵子と光太郎の墓石は あのはなやかに咲く染井吉野が発祥した土地=駒込の霊園の中にあった
 
 ここで二人の愛の物語は完結するのだが これほどの純粋な愛の物語は知らない 映画・小説などあらゆるジャンルの中でも これを飛び越える愛の物語を 私は知らない 今ときの人達に 改めて読んで頂きたい本である たくまざる詩で 骨太で まるで彫塑を見るかのような詩篇の数々は 年相応に又違う印象を与えてやまない 光太郎は型通りのおじ様に過ぎないかも知れないし 直截に愛を貫いた智恵子は 今では重い人であるかも知れない だがこの『智恵子抄』の世界は 何ものにも換え難い 或いは言語を超越した世界が そこにはある 幽妙なる愛の世界が 思い切り詰まっている そしてストレートに心に響いて来る 是非お読み頂きたい大切な本のうちの一冊だ
 
 
   口絵  光太郎作 『手』 『石榴』(智恵子が嬉しくて持ち歩いた)
        智恵子作 『切り絵 盛り籠』『切り絵 青い林檎』
 
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